太平洋戦争末期の1944年、沖縄から疎開する学童らを乗せて九州に向かっていた「対馬丸」が、アメリカ軍の潜水艦の攻撃を受けて沈没。800人近い子どもを含む多くの犠牲者を出した事件から8月22日で79年になる。国は当時、この事実を明らかにせず、被害の全容は今もつまびらかではない。この事件を取材した映像編集者・宮村浩高氏の手記をお届けする。
私はテレビの映像編集者ですが、何度か自ら企画を立て、取材に行ったことがあります。その中でも、学童疎開船「対馬丸」の取材に行ったことは印象に残るものでした。太平洋戦争末期の1944年、沖縄ではいずれ訪れる米軍との戦いから幼い命を守ろうと、子供たちを本土に疎開させることにしました(日本軍側にとっては、子供たちは戦闘の足手まといになるとの判断でした)。そのとき使われた船のひとつが貨物船だった対馬丸でした。
対馬丸
800人以上の学童を含む教師、付添人ら1661人を乗せて、疎開先の長崎へ向けて出港。しかし、目的地を間近にした深夜、アメリカの潜水艦「ボーフィン号」に捕捉されてしまいます。この潜水艦の魚雷攻撃によって、対馬丸は一瞬にして沈没。大勢の幼い命が暗黒の海の底に沈んでいったのです。この対馬丸の護衛にあたっていた2隻の護衛艦は、子供たちをひとりも救助することなく、一目散に逃げ去りました。海中から浮かび上がった人たちは、漂流物につかまりながら何日間も漂流。その間にも多くの人たちが亡くなりました。結局、助けられた児童はわずか59人だけでした。軍は生き残った人たちにかん口令を敷き、沖縄の家族にすら事実を隠ぺいしたのでした。
私はこの対馬丸のことは知ってはいたのですが、後になって知人のご兄弟がこの船に乗り合わせて亡くなっていたことを知りました。そして、撃沈から53年が経った1997年12月、鹿児島県の離れ小島、悪石島の約10キロ沖、水深870メートルの海底に沈む対馬丸が確認されたのです。国は1998年3月、対馬丸の遺族や関係者を沈没地点まで連れて行き、船上慰霊祭を行うと発表。私はこの慰霊祭に参加する知人の同行取材を思い立ち、編集者でありながらこの対馬丸の企画を報道部に申し入れ、取材できることになりました。映像編集者である私は取材ディレクターとしては素人です。しかし、編集者が取材をすることにはメリットもあります。編集者は頭の中で必要な画やシーンなどを計算しやすいため、撮影が必要最小限で済むのです。私がこれまで取材に行った企画では、ラッシュ(撮影した素材)の量が通常と比べあまりに少ないため、周囲から不安視されることもありましたが、放送に使える量は常に計算できていましたので、心配はありませんでした。とはいえ、このスタイルがいい作品に結びつくかどうかは別問題ですが…。本題に戻りましょう。
カメラマンたちより一足先に沖縄入りし、まずは沖縄県公文書館に出向きました。沖縄の貴重な資料が保管されている沖縄県公文書館で、まだ私の知らない対馬丸についての資料を時間の許す限り調べました。私はこの時、ある人の取材をしたいと考えていました。この対馬丸事件の生存者で、児童たちを引率していた女性教諭、糸数裕子さん(いとかず みつこ 取材時74歳)です。糸数さんは当時19歳。那覇国民学校で教鞭をとり始めてまだ4か月の新任教諭でした。対馬丸では、割り当てられた生徒40人を引率していました。子どもたちを救いたい一心で、不安に思う両親を説得し引率していったのでした。結果、その子供たちが亡くなり、自分だけが生き残ってしまった。その後悔から、戦後数十年間はひっそりと暮らされていたようです。その後は引率教諭としては唯一の語り部として活動されていました。そんな彼女に、対馬丸の船体が発見された心境を聞きたかったのです。沖縄県公文書館で1日を過ごしたのち、カメラマンたちと合流し、糸数さんのご自宅に伺いました。私は取材意図を懸命に説明しましたが、予想通り取材はお断りされました。
そこで私は、「わかりました。カメラマンたちは帰します。できればひとつお願いがあります。当時の様子やどのような苦しみがあったのかお聞かせ願えないでしょうか。私が今回の番組を作るにあたって、肝に銘じておきたいこともありますし、私の子供たちにその話を伝えて、後世に少しでも残したいと思っています」と伝えました。これは本心で、彼女の取材は諦めるつもりでした。そうすると、糸数さんは私を家の中に招き入れ、お話をしてくださったのです。本当に丁寧に、ゆっくりとお話ししてくださいました。ひと通りお話を聞くと、驚いたことに突然、「取材を受けてもいい」と言ってくださったのです。ただ糸数さんからもお願いがありました。糸数さんは、船上慰霊祭に参加したい気持ちはあるのですが、高齢のため参加することにためらいがある。船内ではできるだけ一緒にいて欲しいということでした。もちろん、私が責任をもって同行することをお約束しました。こうして、元教諭の取材ができることになり、対馬丸が出航した那覇港でのインタビューなどの撮影が実現しました。
船上慰霊祭前夜の午後9時すぎ、チャーター船「飛竜」が、遺族や関係者312人を乗せて、那覇新港から一晩かけて沈没現場に向かいます。そして翌朝、対馬丸が沈んでいる地点に到着。午前8時半から慰霊祭が執り行われました。いよいよ、亡き子供たちとの再会です。
「ヨシ子ー、チャンロー(来たよー)」「ウサギモン、ムッチチャンロー(供え物を持って来たよ)」花束やお菓子を大海原に投げ込みながら、大声で子供たちに声をかけます。糸数さんは甲板にひざまずき、小さな紙袋に入れてきた黒糖などのお菓子をそっと海に投げこみ、「ごめんね」と静かに語りかけていました。たった4か月間だけの教諭だった彼女は、50年以上も子どもたちにその言葉をかけ続けていたのでしょう。戦争の残酷さが滲み出る光景です。その後、彼女はじっと海を見つめていました。この表情を撮るためにここまで来たんだ、と彼女の横顔を見ながら思いました。
海を見つめる糸数裕子さん(撮影/宮村浩高)
多くの人たちは眼下に沈んでいる対馬丸の方に視線を向けていましたが、糸数さんだけは、なぜか遠くの水平線を見つめ続けていたのでした。
大阪に戻り、急いで編集をして、夕方の関西ローカルの報道番組で放送しました。この放送後、系列東京キー局から全国放送で流したいとの連絡がありました。沖縄でお世話になった方々には、残念ながら関西でしか放送されませんと伝えていましたが、全国放送なら沖縄でも観ていただけると思い、喜んでお受けしました。ところが、ひとつ注文が入ったのです。私の作った映像のラストにはある曲を流していたのですが、メッセージ性が強く、番組にそぐわないので曲を切ってもいいか? という注文でした。その曲は、沖縄の音楽グループ、ネーネーズ(沖縄の言葉で「お姉さんたち」の意味)が歌う「平和の琉歌」(作詞作曲:桑田佳祐)という曲でした。♪この国が平和だと 誰が決めたの?人の涙も渇かぬうちにアメリカの傘の下 夢もみました民を見捨てた戦争(いくさ)の果てに蒼いお月様が泣いております忘れられないこともあります確かにメッセージ性は強いのですが、そのメッセージこそ私が伝えたかったことなので、それを外すとその意図が薄れてしまいます。とはいえ、沖縄にはすでに放送されるという連絡を入れてしまっていたので、放送を楽しみにしている人たちのことを思うと、注文を受け入れるべきか悩みました。悩んだ挙句に私が出した結論は、「やはり切らないで欲しい。それが駄目なら放送しなくていい」というものでした。放送するかどうかは、東京のテレビ局の判断になりました。沖縄の人たちには事情を説明して、放送されるかどうかはわからないと連絡を入れました。そして結果は、曲をカットされることなく放送されたのでした。ほっとした私が沖縄に連絡すると、放送が始まった瞬間、観ていた人たちから一斉に拍手があがったと知らされました。また、歌があってよかったという感想もいただきました。
あの取材から約25年の時が過ぎた2022年9月、糸数裕子さんの訃報に接しました。19歳で対馬丸で遭難してから97歳まで、子供たちを死なせてしまったという罪の意識を背負いながら生きてきた糸数さん。彼女も子供たちと同じように戦争の犠牲者であるはずなのに…。沖縄では、対馬丸のような悲劇は数多くあります。そんな沖縄に、戦後80年近く経とうとしている現在でも、基地を押し付けています。そして“ヘイト”とも言えるようなデマすら横行しています。沖縄の基地建設反対運動は、「日本人ではない在日韓国・朝鮮人、中国人らほぼ外国人によって組織的に過激化されている」というような文章がインターネット上で散見されていました。これも、まったくのデマであることは現場を見て来ればすぐに分かります(私は現地に行き、反対運動をしている人たちの話を聞いてきました)。
「沖縄の基地がある土地にはもともと住民はいなかった。基地ができた後に住民らが集まってきた」という売れっ子作家の発言もありました。これなどは、小学生でも少し調べれば嘘であることはわかります。米軍基地反対運動に対しては、嘘の情報が数多く飛び交い、マスコミの人たち、政治家の中ですら信じている人がいる有様です。過去の悲劇を無かったことにしてしまう風潮に戦慄すら覚えます。あの日、太平洋上で遠くを見つめながら、絞り出すように「ごめんね」と繰り返し呟いていた元教諭の姿を、マスコミの片隅にいた私は絶対に忘れてはいけないと思っています。※7月29日に、学童疎開船「対馬丸」の生存者で語り部を続けてきた平良啓子さんが亡くなられた。「戦争は絶対に許されない」と訴え続けてきた平良さんのご冥福をお祈りいたします。文/宮村浩高 写真/共同通信社