アメリカ空軍が運用したF-105「サンダーチーフ」戦闘機は、低空飛行や危険な任務にも数多く投入されました。それはひとえに搭載量に優れていたからだそう。なかには意外な使われ方もあったようです。
「戦闘爆撃機」という機種は、一般的に爆撃能力を持った戦闘機のことを指します。最近ではアメリカ海軍のF/A-18「ホーネット」やアメリカ空軍のF-15E「ストライクイーグル」、航空自衛隊のF-2戦闘機などのように、対地・対艦攻撃も可能な戦闘機というのは珍しくなくなっています。しかし、1970年ごろまでは爆撃機に匹敵するほどの対地・対艦攻撃能力を持つ戦闘機は珍しく、だからこそ各国とも攻撃機や軽爆撃機といった機種を用意し、運用していました。
そういったなか、軽爆撃機の役割を兼ね「型式のFとBを付け間違えた」とさえ言わしめたのがアメリカ空軍のF-105「サンダーチーフ」です。一部からは「マルチロール機の先駆け」との呼び声も高い同機は、いったいどのように生まれたのでしょうか。
米空軍の“なんでも屋” F-105戦闘機のぶっ飛んだマルチぶ…の画像はこちら >>1982年10月16日、ポイントマグー海軍航空基地で撮影したF-105G(細谷泰正撮影)。
冷戦真っ最中の1950年代、アメリカ空軍は超音速戦闘機を立て続けに開発・導入していました。それらはF-100から始まる100番台が与えられていたことから、通称「センチュリー・シリーズ」と呼ばれています。
センチュリー・シリーズの先陣を切ったのが、ノースアメリカン社製のF-100「スーパーセイバー」です。この機種は、一般的に世界初の超音速戦闘機として知られていますが、実際には戦闘爆撃機として使われています。ただ操縦性にクセがあったうえ、機体の構造が弱いという問題を抱えていたため、訓練中の事故や空中分解が多発。アメリカ空軍は代替機の開発を急ぐことにします。
このような要望に対してリパブリック(現フェアチャイルド)が答えたのが、YF-105でした。プラット・アンド・ホイットニー(P&W)製J57ターボジェット・エンジンを搭載した試作1号機(YF-105A)は1955年10月22日に初飛行していますが、このとき早くも音速を突破しています。
試作2号機のYF-105Bは、より高出力なP&W製J75ターボジェット・エンジンを搭載。加えて胴体形状にエリアルール(断面積の変化を小さくすることで音速付近の抵抗を減らす方法)を取り入れたことで最大速度はマッハ2に達しました。バックアップ的な意味合いを込めてF-105と並行して開発されたノースアメリカン社製F-107との比較審査を経て、正式にF-105が採用され「サンダーチーフ」と命名されました。
加えて量産機には、核爆弾を胴体内に収容するための爆弾倉と、20mmバルカン砲M61が装備されています。
アメリカ空軍は当初、F-105を1400機調達する計画を立てていました。ところが、1961年に就任したマクナマラ国防長官は国防費全体の費用対効果を最優先し、空軍と海軍に対して共通の軍用機を使うようにとの方針を打ち出してきたのです。このあおりを受けてF-105の生産は610機で打ち切られ、それ以降は海軍が導入を進めていたF-4「ファントムII」戦闘機を空軍でも採用することになりました。
F-105は1960年には部隊配備が始まり、1962年には海外の基地にも配備が開始され、日本でも嘉手納基地の第18戦闘航空団や、板付基地(現:福岡空港)の第8戦闘航空団に配備されています。
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当時、州兵航空隊や空軍予備役飛行隊で現役だったセンチュリー・シリーズ3機種そろい踏みでの展示。1982年5月15日、旧マクレラン空軍基地で撮影。右手前からF-101B、F105D、F-106A(細谷泰正撮影)。
ベトナム戦争では、アメリカが軍事介入するとともにF-105が投入され、早い段階から対地攻撃の主力機として重用されました。これは、核攻撃用に作られたため、優れた爆弾搭載量を誇っていたからですが、それは危険な任務でした。低高度では対空砲火、高高度では地対空ミサイルがF-105を待ち構えていたからです。
結果、ベトナム戦争に投入されたF-105の約半数が撃墜されたほか、約50機が事故で失われています。ただ、これは当時のジェットエンジンの信頼性が低かったことも大きかったようです。このころのジェットエンジンは離陸時の推力を増やすため、水を噴射して取り入れる空気の密度を増やす方法を採っていました。その原理はターボ付き自動車エンジンのインタークーラーに似ていますが、保守に手間がかかる厄介な仕組みでした。
爆弾を満載したF-105は、離陸時にアフターバーナーと水噴射の両方を使用して何とか離陸できるような状態で、離陸滑走中に水噴射が故障すると離陸すらできずにオーバーラン事故を起こしていました。
ほかにもベトナムでの消耗が多かった理由として、当時のパイロットが挙げていたのが、あまりにも制約の多い交戦規程でした。介入当初、北ベトナム(当時)を爆撃する目的は同国による南ベトナム(当時)内の共産勢力への支援を断念させることに限られていて、最も効果的な港湾施設や飛行場を爆撃することは厳しく制限されていたからです。
こうしたこともあって、F-105は出撃しても戦果の割に多くの損害を被ることが多かったといえるでしょう。
その後、ソ連製地対空ミサイル(SAM)が北ベトナムに供与・配備されるようになると、アメリカ軍機はそれらへの攻撃も始めます。ところが、偵察機がSAMの場所を確認して爆撃しても、破壊したのは竹製の偽SAMであることが何度も起きるようになりました。
そこで採られた方法が、SAMサイトの発するレーダー波を確認してから、そのレーダー波に向かって飛んで行くミサイルの起用です。これは、あえて敵SAMの射程内に飛んでいく無謀な任務でSEAD(Suppression of Enemy Air Defense:敵防空網制圧)と呼ばれ、果敢にSEAD任務を行う部隊は野生のイタチになぞらえて「ワイルドウィーゼル」と呼ばれるようになりました。
これに用いられたのが、複座型のF-105F「サンダーチーフ」です。改造されたものは新たにF-105Gとしてベトナムに投入されました。
G型は、後席の電子戦士官が電波妨害と敵レーダー波の分析を行うようになっており、加えて対レーダーミサイルを発射可能な装備を搭載しているのが特徴でした。こういった改造が行えたのは、ひとえにF-105「サンダーチーフ」が頑丈で、かつ兵装搭載量に優れていたからだといえるでしょう。
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1982年10月24日、エドワーズ空軍基地で展示されたF-105D戦闘機(細谷泰正撮影)。
こうしてワイルドヴィーゼル仕様として生まれたF-105Gは、ベトナム戦争終結後にはアメリカ本土へ戻り、空軍予備役飛行隊や州兵航空隊に配備され1984年まで運用され続けています。
F-105はベトナムでの損失数が多く戦闘機としての評価は必ずしも良いとはいえません。しかし、同様な任務で使用されたF-100「スーパーセイバー」に比べると、良好な操縦性とはるかに堅牢な機体構造を持っていました。そのため、メーカーのリパブリック社は「リパブリック鉄工所」とも呼ばれていました。
万一の際には核攻撃任務にも就けるよう設計開発されていたF-105「サンダーチーフ」。幸いなことにその任務には就くことなく現役を終えています。しかし、豊富な搭載量を活かして様々な任務に用いられた結果、使い勝手の良さをアメリカ空軍に認めさせ、堅牢さと多用途性はF-15E「ストライクイーグル」などに受け継がれたといえるでしょう。
ちなみに、アメリカ空軍のアクロバット飛行チーム「サンダーバーズ」も1964年に短期間ながら同機を使用していました。これも、また「なんでも屋」「万屋」と形容するにふさわしいF-105のエピソードのひとつといえるのかもしれません。