[大弦小弦]3162万2400秒

ピアニストがいすに座る。演奏の前に、鍵盤のふたを閉じる。手にはストップウオッチ。曲はタイトル通り「4分33秒」続くが、ピアノは1度も鳴らない▼米国の作曲家ジョン・ケージの代表作を、年末の夜にネット動画で聴いた。たたずむピアニストが気になるのは最初だけで、だんだん、いろいろ、聞こえてくる▼アパートのベランダ。雨垂れがトタン屋根を一定の間隔でたたいている。隣の部屋を家族が歩く。スマホに通知が届く。人生の現在地に耳を澄ませているうちに、感覚が環境に吸い込まれていく。豊かな鑑賞体験▼あらゆる音は耳を傾けるに値する、とケージは説いた。楽器が奏でる旋律も、観客のせき払いも。そうすると権威ある専門家の見解にも、私たちの声にも、同じだけの重みがあることになる▼若い頃「音は私の死後も続く」という確信を語ったケージは、1992年に亡くなる前は「時間が永遠に続くものかどうか、自信を失っている」と言った。人の一生だけでなく、地球もいつか終わる。宇宙空間に音は響かない。人類の愚かさが終末を早めてしまうかもしれない▼2024年が明けた。うるう年なので366日、秒にして3162万2400秒ある。この間に沖縄、日本、世界で私たちはどんな物音を聞くだろう。語れる間、私たちも希望を語ろう。(阿部岳)