スーダン内戦から決死の脱出 認定NPO法人「ロシナンテス」理事長・川原尚行(57)

【前編】アフリカに「医」を届ける医師 内戦スーダンの村人たちとの交流秘話より続く
「内戦が落ち着けば、スーダンに戻るつもりです。もっと医療を充実させたいし、今後は農業支援にも力を入れたい。日本との貿易がうまくいけば、地域の経済が回り、自立できます。その仕掛けのため、明日からは東京に行って、駐日スーダン大使に相談するんですよ」
と語るのは認定NPO法人「ロシナンテス」理事長・川原尚行(57)だ。スーダン内戦からの必死の逃避行を明かしてくれた。
「突然、ダンダンという低い銃声が絶え間なく続き、砲弾が撃ち込まれたような爆発音が重なりました。すぐに激しい戦闘が起きたことを悟り、日本大使館にメールで連絡を取ると、間もなく《残念ながら、内戦が始まったようです》と返信があったんです」
アフリカ大陸の北東部、エジプトの南に位置するスーダン。首都・ハルツームを拠点に“アフリカに「医」を届ける”活動を続けている認定NPO法人「ロシナンテス」理事長の川原尚行(57)が、いつものようにナイル川で朝日を拝む散歩から帰った直後のことだ。
4月15日、平穏な生活が、スーダン軍と準軍事組織(以下RSF)の激しい争いによって奪われてしまったのだ。
「日本政府は国外退避を決め、私も関係機関と連絡を取り合い、男性1人、女性1人の日本人スタッフとともにスーダンから脱出することになりました。
しかしハルツーム空港は戦闘が起きていたため使えません。23日早朝から車で30時間以上かけて、自衛隊機が待つ800Km離れたポートスーダンまで移動。かなり厳しいオペレーションだと見立てていたので、生きて日本には帰れないかもしれないという覚悟もありましたが……。周囲のサポートや励ましの声、そして家族の存在が支えになりました」
4月29日に無事に帰国した川原は、現在「ロシナンテス」の事務所がある北九州市小倉を中心に活動している。
オフィスを訪れると、いちばん奥のデスクに座るスーツ姿の川原が立ち上がり、迎えてくれた。大きな体で豪放磊落といった印象の川原は、九州大学医学部を卒業後、外科医として活躍。のちに外務省の医務官としてタンザニアやスーダンに赴任。外務省を辞職してからは「ロシナンテス」を設立し、スーダンの無医村に医療や水、そして教育を届ける活動を続けている。
「小説『ドン・キホーテ』で、主人公がまたがる痩せ馬がロシナンテ。ときにはばかにされる存在でもあります。実際、私も外務省を辞めたとき“居続ければそれなりのポジションを得られただろうし、給料も上がっていったのに”と、笑う人もいたでしょう。
でも、たとえ弱い痩せ馬であっても、仲間が集まれば強い存在になれる。そんな思いからロシナンテを複数形にした『ロシナンテス』という名称にしたんです」
だが、こうした活動の前に立ちはだかったのが、突如、勃発した内戦だ。
■30時間以上かけた脱出行。ともに汗をかいた村のリーダーが危険を冒して迎えてくれた
「4月15日に男性スタッフと住む寮で銃声と砲撃の音を聞いて、ただごとではないと。窓からは爆撃機が見え、ビルが空爆を受ける様子も見えました。家族にはLINEで《どうやら内戦が始まったらしい》と伝えましたが、女房は現実的には捉えられず、最初は《何それ》という反応でした」
しばらくは外出もままならないだろうから、籠城するためになじみの個人商店に買い物に出かけた。
「動きが早かったのか、1カ月分の食料品を買い込むことができました。事務所に隣接する女子寮にいる日本人スタッフ1名とも連絡を取り合い、水をためたり、ガスのチェックをしたり、電気が通っているときは常に通信機材などを充電しておくようにしていました。水は貴重なので、ボトルは当然、お菓子の箱やおけなど、ためられるところにためました」
そんな様子を撮影して、LINEに《籠城成功!》と送ると、佳代さんからは水が蒸発しないよう《ラップをした方がいい》というアドバイスが返ってきたという。
長男や長女は、3歳と1歳になる孫の動画を送ってくれた。場所は離れていても、心のそばで家族が支えてくれていることを実感。
事務所の整理をするために外出するときは、細心の注意を払った。銃を持つRSFの軍人が街中にいるため、自分は日本人だからと身分を明かして、敵意がないことを伝えなければならない。 「家が襲われることも考え、持っていた現金を分けて、渡す分の見せ金を用意。パソコンも仕事で使うものは確保して、使わないパソコンや携帯も準備しました」
LINEを通して、夫婦や家族のやりとりが続いた。
《今日まで停戦。静かです。明日からどうなるかは不明》
《ずっと停戦だといいのですが》
佳代さんが語る。
「LINEに《大丈夫?》と送って、既読がつけば安心。すぐに既読にならなくても、これまでも通信環境が悪いということはありました。でも1日待っても返事が来ないと怖くなるんです」
緊張状態が続くなか、日本政府は邦人を国外退避させる決定を下した。川原が語る。
「無念よりも、生きていればこそ、活動は再開できると思っていました。まずは日本人スタッフとともに、無事に日本に帰ることが最も重要なことだったんです」
4月23日の朝4時にハルツームの集合場所へ向かい、そこから30時間以上かけて港町、ポートスーダンまで移動することになった。
「1千人を超える、大移動となります。ハルツーム内の移動でも襲われたケースが報告されていたから、家族に電話して『どうなるかわからん。もしかしたら死ぬかもしれん』と伝えていたんです」
佳代さんも気が気ではない。
「ポートスーダンまでの移動も、もしかしたら襲われるかもしれないし、なにより長時間の車の移動なので、事故が怖かったです」
佳代さんが危惧するように、車の運転は過酷だった。食事や睡眠もほとんどとれない。食事休憩で体を伸ばすために車外に出たとき、兵士が走ってきて「ここは危険だから、車に乗ってくれ」と移動を促されたこともあったほど。何があってもおかしくない状況だった。
「日本人スタッフが励ましてくれたり、コーヒーを入手してくれたり。車にはスーダン人の夫と日本人妻の家族も一緒だったんですが、ちっちゃい子どもたちの姿やはしゃぎ声が、励みになりました。子どもたちの未来が、俺のハンドルにかかっているんだと」
ようやく目的地に到着したのが、24日午後1時。疲労困憊のまま、緊張状態が続いたが、検問所にあった見慣れた顔が、安心感を与えてくれた。診療所や井戸、教育施設をともに作った村のリーダー、ハサンさんだった。
「日本の家族は元気か?診療所も学校も、井戸もまったく問題がないから安心しろ」
川原さんは述懐する。
「何時に到着するともわからない私を、ずっと待っていてくれたんです。自分の身も危ないのに、わざわざ来てくれるとは……。車は現地に乗り捨てるつもりでしたが、ハサンに預けることもできました」
ポートスーダンから隣国のジブチへ向かう自衛隊機では、機内に掲げてある日の丸を見て涙が浮かんだ。ここではじめて無事に帰れると実感したという。
羽田空港へ到着したのは、内戦開始から約2週間後の29日。福岡から迎えに来た佳代さん、東京や山口で暮らす子どもや孫たちが空港で待ちわびる。
「無事に帰ったよ。心配かけたね」と語る川原に、佳代さんは「よかった、よかった」と抱き合った。
体から家族の温もりが伝わってきた──。