横浜を代表する観光地「みなとみらい21」のすぐ近くに、横須賀や佐世保と同じ在日米軍専用の埠頭「横浜ノース・ドック」があります。ここは戦前、日本が整備した物流拠点でした。その知られざる歴史を振り返ります。
横浜を代表する観光地と知られる「横浜みなとみらい21」。ここにはランドマークタワーをはじめ、横浜ハンマーヘッドや赤レンガ倉庫などの商業施設が立ち並び、多くの人で賑わっています。そこから横浜港内を眺めると、対岸に客船とも貨物船とも違う灰色や白色の船が並んでいるのが目に入るかもしれません。
実は、その場所は「横浜ノース・ドック」と呼ばれるアメリカ軍の施設で、そこに接岸しているのは横須賀基地や佐世保基地で見かけるのと同じアメリカ軍艦船になります。しかも2023年4月16日には、アメリカ陸軍の小型揚陸艇部隊が新編され、船舶を運用する要員が常時配置されるようになりました。なぜ、横浜港の中心にアメリカ軍施設があるのか。その歴史を紐解いてみましょう。
“ここはアメリカ”横浜のど真ん中になぜ? 米軍専用の港「ノー…の画像はこちら >>米軍専用埠頭「横浜ノース・ドック」で行われた防災訓練の様子。アメリカ陸軍の揚陸艇から降ろされる陸上自衛隊の救急車(深水千翔撮影)。
そもそも「横浜ノース・ドック」が所在する場所は、横浜港のなかでも瑞穂(みずほ)埠頭と呼ばれるエリアになります。ここは、横浜港第三期拡張工事の一環で1921年(大正10年)に造成が始まりました。
当時、横浜港は第二期築港工事で日本初の本格的な「係船岸壁方式」の港湾施設として整備された新港埠頭や、明治期から外航船が接岸していた大桟橋で貨物の荷役が行われていました。しかし、第1次世界大戦の勃発と大戦景気によって貿易貨物の取扱量が急増。これまでの港湾設備では対応しきれなくなったのです。
このため、内務省(当時)は横浜港をさらに拡張し、日本一の巨大貿易港として発展させるため、同省横浜土木出張所の直轄事業として、新たに外国貿易設備(瑞穂埠頭)と内国貿易設備(高島埠頭、山内埠頭)の整備を計画しました。
こうして1921年(大正10)からの10か年継続事業として埋め立てがスタートしますが、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災で横浜港は壊滅的な被害を受けたことで、港の機能を回復する震災復旧工事が優先されることが決定、事業は中断を余儀なくされます。
関東大震災の発災から2年後、1925(大正14)年に外国貿易設備(瑞穂埠頭)と内国貿易設備(高島埠頭、山内埠頭)の整備は「大正14年直轄事業」として再開。10年後の1935(昭和10)年3月に瑞穂埠頭が完成します。
この時、東海道本線臨港線から分岐する専用線も建設され、埠頭内には外国貿易の貨物専門駅として、瑞穂駅が同年7月に設置されました。なお、途中で水路を跨ぐため、日本初の溶接鉄道橋として瑞穂橋が架けられています。
瑞穂埠頭は、開業時点で3000総トン級の船舶5ないし6隻が余裕をもって接岸できる設備が整えられており、ゆくゆくは1万6000総トン級の船4ないし5隻まで同時に荷役が可能な受け入れ能力が付与される予定でした。
ちなみに、当時の日本郵船が保有していた大型貨客船「浅間丸」が、全長178mで1万6947総トンだったので、このクラスの船が縦列で横付けできる形になります。
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瑞穂埠頭の一角を占める在日米軍「横浜ノース・ドック」の正門入口(深水千翔撮影)。
外国貿易設備の工事はその後も続き、1949(昭和24)年度までに完成する計画でしたが、太平洋戦争と日本の敗戦が瑞穂埠頭の運命を大きく変えることへ繋がります。
横浜市に進駐したアメリカを始めとした連合軍は、横浜税関本庁舎に総司令部を置き、戦艦「ミズーリ」で降伏文書が調印された1945(昭和20)年9月2日から、大桟橋(サウスピア)、新港(センターピア)、山内、高島、瑞穂(ノースピア)といった埠頭と港湾施設の9割を接収。その管理運営も連合軍が実施するとしました。
これにより横浜港は商港としての機能が完全に麻痺し、港を中心とした経済活動を担っていた民間企業も東京などに転出したことで、横浜市は復興が大きく遅れることになります。
こうしたなか、民間貿易再開の動きに合わせて1947(昭和22)年に高島埠頭が、1951(昭和26)年には山内埠頭の接収がそれぞれ解除され、1952(昭和27)年には大桟橋も日本に全面返還されました。
しかし1950(昭和25)年に朝鮮戦争が勃発し、横浜港が国連軍の兵站拠点となったことで、鉄道と船舶が連携して兵員、弾薬類、補給物資などの輸送ができる新港埠頭と瑞穂埠頭はアメリカ軍による使用が継続されます。その後、朝鮮戦争の休戦によって、新港埠頭の接収は1956(昭和31)年に大部分が解除され、港湾司令部として使われていた赤レンガ倉庫も港湾倉庫としての機能を取り戻しました。
ただ瑞穂埠頭は1952(昭和27)年に締結された日米安全保障条約に基づき、無期限でアメリカ軍が使用することが決まります。このため、代替施設として山下埠頭の第1バースが安全保障費で建設され、横浜港はその後、山下、本牧、大黒とその土地を広げていくことになりました。
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横浜みなとみらい地区から望む「横浜ノース・ドック」(深水千翔撮影)。
現在、瑞穂埠頭にはアメリカ軍の「横浜ノース・ドック」が7バース(総延長1259m)を使用しているほか、民間企業である横浜倉庫の鈴繁埠頭が5バース(993m)、そして砂や建設用資材を中心に取り扱う公共埠頭(170m)が置かれています。
「横浜ノース・ドック」を使用しているのは、アメリカ陸軍の第836輸送大隊や在日米海軍横須賀補給センター、日本区域艦船支援隊、そして陸上自衛隊の中央輸送隊などです。敷地内は在日米陸軍施設管理本部が管理する「埠頭地区」と、在日米海軍横須賀基地司令部が管理する「郵便地区」で構成されており、「埠頭地区」では車両やコンテナの陸揚げや船積みといった貨物輸送業務が行われています。
ただ、それら以外にも、軍事海上輸送司令部に所属する双胴の音響測定艦5隻が事実上の母港として使用しているほか、高速輸送艦「グアム」やミサイル追跡艦「ハワード・O・ローレンツェン」といった艦船が接岸していることも多々あります。また、観艦式を行う際は、海上自衛隊の護衛艦が入ることもあります。
なお、前述したように2023年4月16日に「横浜ノース・ドック」で新編された小型揚陸艇部隊は、これまで米本土から随時派遣されていた船舶運用のための要員を常時配置し、南西諸島などへ迅速に部隊と物資を展開する体制を整えることを目的としています。
部隊規模は船艇13隻と人員280名。とはいえ、同地にはアメリカ陸軍の「ラニーミード」級汎用揚陸艇(LCU)や機動揚陸艇(LCM)、タグボートなどが以前から配置されていたため、こうした船艇を取りまとめる中間司令部が新設されたといえるでしょう。
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瑞穂埠頭に今も残る踏切跡(深水千翔撮影)。
そういったなか、2009(平成21)年に瑞穂橋(道路橋)と外周道路が返還され、2021年には長らく使用されていなかった貨物専用線跡が返還されました。レールと鉄道橋は今後、撤去される予定となっています。
一方、横浜市が求める「横浜ノース・ドック」の全面返還はまだまだ先になりそうです。横浜港を行く水上バスからも間近で見ることができる、“近くて遠い”横浜のアメリカ軍基地。華やかな街並みのすぐ近くには、歴史に翻弄された埠頭が広がっているのです。