多くのコンサートが開かれ、「音楽ファンの聖地」として親しまれてきた中野サンプラザ(東京・中野区)が2日に閉館する。自身の芸名の由来になった歌手のサンプラザ中野くん(62)がスポーツ報知のインタビューに応じ、「盟友」と呼ぶ同ホールへの思いを語った。(加茂 伸太郎)
2日の閉館を前に、中野くんは感慨に浸っていた。
「中野サンプラザが築50年、私がデビューして40年ですから。エンタメ業界に肩を並べて歩んで来られたかな。どういう存在かと言われれば、盟友ですかね」
1976年、高校1年の冬に人生で初めて訪れたライブ会場だった。同級生とダブルデートし、2階席から見たチューリップの演奏が最初の思い出だ。4年後の80年夏には、アマチュアバンドコンテスト「EastWest(EW)」の決勝大会に出場。チューリップのいたステージに、今度はプレーヤーとして立った。
「歌い始めて2か月ちょっと(の出来事)でしたから、すごく自信になりました。『俺は天才だ!』と間違った思い込みをしてしまい(笑い)、もうプロになるしかないと。(この経験が)歌手人生のバックボーンになり、迷いなく音楽の道に進んでいった感じです」
翌81年のEWで優秀賞を受賞。打ち上げに参加したことが、芸名誕生のきっかけになった。自己紹介の順番が回ってくるまでの間、緊張でドキドキ。隣にいた女性に「何て言ったらいいですか」と助けを求めた。
「その女性は『あなた、本名が中野でしょ。会場が中野サンプラザだから、ひっくり返して“サンプラザ中野です!”と言ったらウケるわよ』って。実際に、こんなにウケるのかというぐらいウケて。そのまま芸名にしようってことになりました。あの方がいなければ、『サンプラザ中野』の名前は生まれていないです」
84年に爆風スランプとしてデビュー。88年に「Runner」が大ヒットした後も、当時のレコード会社・CBSソニーの上層部から「サンプラザ中野が、中野サンプラザでコンサートをやるのはひねりがなさ過ぎる」と告げられ、いつしか、その言葉が不文律に。デビュー36年の2020年9月に還暦記念ライブを行い、ようやく同所での初ライブが実現した。
中野サンプラザは24年に解体、建て替えられ、28年度に完成予定。2222人収容の同ホールも、約7000人収容の「NAKANOサンプラザ」として生まれ変わる。
中野くんは「見た目がかわいい、特異な三角形の白いビルだった。次も建物の形と施設そのもの、その両方が素晴らしいものになってほしいです。『中野の駅前に行けば、いい音楽が聴ける』というランドマーク的な存在になることを願っています」。新ホールでのライブにも意欲的で「こけら落としイベントがあれば、やりたいです。それまで歌っていますので呼んでください!」とラブコールを送った。
◆サンプラザ中野くん 1960年8月15日、山梨県生まれ(千葉県育ち)。62歳。早大政治経済学部卒。爆風スランプとして84年デビュー。「大きな玉ねぎの下で~はるかなる想い~」などがヒット。99年バンド活動休止。歌手のほか、健康、株を中心にした執筆など幅広く活動。2008年「サンプラザ中野」から現在の芸名に改名。血液型B。
◆中野サンプラザ 1973年6月1日、特殊法人の雇用促進事業団が建設し「全国勤労青少年会館」としてオープン。愛称が一般公募され、エネルギーの象徴「太陽=SUN」、人々が集う場所「広場=PLAZA」から「サンプラザ」に。2004年に「株式会社中野サンプラザ」として民営化された。JR中野駅北口に位置し、白い三角形が特徴。地上20階・地下3階。18年、酒井直人区長が建て替え方針を表明した。