昨年、安倍晋三元首相が銃撃され死亡した事件からちょうど1年。殺人罪などで起訴された山上徹也被告(42)の全1364ツイートを分析した書籍『山上徹也と日本の「失われた30年」』の著者である政治学者の五野井郁夫氏と、ドイツ文学翻訳家の池田香代子氏の刊行トークイベント(今野書店・東京都杉並区)の模様をお届けする(記事は図書新聞<3595号=2023年6月17日号>に掲載されものです)。
五野井 4月に岸田文雄首相が襲撃される事件がありましたが、その犯人(木村隆二容疑者)のツイートを分析していくと、去年の山上徹也被告による安倍元首相殺害事件に触発された部分があったと感じられました。山上被告は手製の爆弾や銃をつくりましたが、今回も手製の爆弾でした。
今年4月、岸田文雄首相を襲撃して確保された木村隆二容疑者(写真/共同通信社)
テロや暴力を通じて政治を変えていこうとするのを許さないのは当然の前提として、山上被告はなぜあのような事件を起こしてしまったのか? それを検証することを通じて、彼の心の裡を分析し、理解し、どうすればそういう暴力に訴えようとする人が今後出てくることがない社会を構想することができるのか、という思いから『山上徹也と日本の「失われた30年」』を書きました。山上被告は安倍元首相の殺害に「成功」してしまったので、山上被告を「英雄視」するような人も一部に見られます。そのように見られることに、木村容疑者も憧れてしまった面があったのではないか、その意味でやはり模倣犯と言うべきだと思います。木村容疑者のツイートを見ると、方便だと思いますが、選挙に立候補するときに払う供託金(例えば衆議院小選挙区では300万円)が払える人間、あるいは世襲の人間、もしくは旧統一教会のような宗教組織が後ろについている人間のことを「既成の政治家」と呼んでいます。既成の政治家はいいですね、ジバン・カンバン・カバンが整っているから、と。木村容疑者は中流階級の出身で、閑静な住宅街で育ったと思いますが、そういう人からしても格差の問題の存在が大きくて、自分のような「普通」の存在は政治家になれないと諦めていました。「選挙や投票では政治は変わらない」という発想がありますが、選挙期間以外でもデモや請願などで政治活動はできるのに、そうは思わなかった。池田 そのようには思いもよらなかったのではないでしょうか。ところで、木村容疑者のツイッターアカウントはどうして特定されたんですか?五野井 去年、彼は参政権(被選挙権)に関する訴訟を起こしていましたが、そういうことをしている1999年3月生まれの23歳(当時)という人は、彼しかいなかったからです。
池田 ツイッターで裁判への支援を求めていましたね。五野井 自分が被選挙権を得られないことが民主主義にかなっていないと言っていました。池田 供託金が高すぎること、そして被選挙権の年齢の規定が憲法違反だということで、去年、本人訴訟(弁護士なし)を起こしていました。被告(国)は出てこず、一回で結審してしまうんですが、しかし彼はめげずに上訴しました。高裁ではほぼ門前払いで、残るは最高裁ですが、その前に彼は爆発物をつくるなどという方向に行ってしまった。どうしてでしょう? あと2年待てば彼だって衆議院選挙などに出られるようになるのに。
五野井 待てなかったんでしょうね。だいたい、民主主義が大事だと言いながら、彼がやったのは民主主義に最も反する行為です。だから訴訟は「方便」だと思います。池田 方便でそんなエネルギーが出ますかね?五野井 出るのではないですか。方便で国会議員になっている人だっているんですから。山上被告にせよ木村容疑者にせよ、若い人なのに政治意識は高いという点では共通しています。政治意識がなまじっか高いがゆえに様々な悲劇が起きてきています。正当な自由民主主義の三権分立のプロセスでは解決できない問題があると早合点してしまったのでしょう。池田 早合点させてしまう何かがあるということですね。五野井 はい。先ほども申し上げたように、選挙などではなくても、デモなどで意思表示することは可能ですが、そう言うと「そんな悠長に待っていたら、支配者のいいようにやられるだけではないか」といったツイートが返ってくることもあります。池田 民主主義を十全に信じられないというか、諦観がある。五野井 多くの人が投票に行きませんが、それは「選挙に行っても変わらない気がするから」です。選挙に行ったりデモに参加したりすると世の中が変わると思える感覚のことを政治的有効性感覚と呼ぶのですが、それが高ければ多くの人が投票に行ったりデモに参加したりして、政治家がその声に応えます。しかしいまの日本はそれが低いので、投票率も4割程度になってしまっています。「投票に行っても意味がない」と思わされてしまっている。池田 その点、岸本聡子さんを区長に当選させた杉並区民は違うかもしれません。「私の一票で変わった」と思えているかもしれません。五野井 それがまさに政治的有効性感覚が上がったということです。政治的有効性感覚が高かったら、もしかしたら山上被告も木村容疑者も、あのようなことはしなかったかもしれません。
池田 岸田首相襲撃事件の後に山上被告のツイートを読むと、木村容疑者は幼いと思わざるをえません(実際に年齢も若いですが)。山上被告のツイートは「豊か」でさえあって、私に考えるきっかけを与えてくれたこともあります。私は最初、山上被告の起こした事件を、悪辣なカルトと、それを放置した定見のない政治家がつくりあげた現実、と思いましたが、五野井さんは、それとは違うところからこの事件に光を当ててくださいました。五野井 山上被告の1364ツイートを精査して見えてきたことがありました。山上被告をあのような凶行に走らせた主因は言うまでもなく旧統一教会です。しかし、社会として山上被告をあのように追いつめず、凶行に走らせないよう様々なセーフティネット(社会的紐帯)があるべきだったのに、なかったことも原因であのような大変悲しい事件を起こしてしまった。私は、安倍元首相は殺されるべきではなかったと思っています。そもそも殺されるべき人など誰もいないですし、また公文書改ざん問題で自殺してしまった赤木俊夫さんの事件やロシアへの北方四島をめぐる交渉過程等も含めて、しっかりとすべてに説明責任を果たす道徳的義務が彼にはあったからです。
例えば今日のようにみんなで意見を共有したりする場にもし山上被告が足を運べるような何かがあれば、おそらく、あのような凶行は起きなかったはずです。そうしたセーフティネットを新自由主義的諸施策が断絶していき、人々をいがみ合わせるようにし、お互いに不信感を募らせ敵対させる政治がこの30年間ありました。弱者の切り捨てが横行し、その人たちが顧みられる機会がなくなってきました。その犠牲者の一人として山上徹也という人がいるんだと思います。社会や政治の側から山上被告に対して事前に何らかのアプローチができていれば、安倍元首相殺害事件は防げたのではないかなと私は思います。もちろんこれはSPが優秀であれば防げたとかそういうことではなく、社会が彼に思いとどまらせるような──本当にわかりやすく言えば、話し合える友人がいるとか、恋人がいるとか、話し合える家族や親族がいれば、とか、そういったことです。
池田 山上被告という人物は「自己責任」という考え方に骨がらみになっていると、五野井さんから今回教えられました。私のような世代には、その度合いの凄まじさには想像力が追いつかないところがあります。自己責任論でがんじがらめになっていると、セーフティネットを見ようとしない、探そうとしない、求めようとしない、そして孤立していってしまうということがありませんか?五野井 あります。実際、彼のツイートのなかで、生活保護について、「頼りたくない」という趣旨のものがいくつかあります。普通に考えれば、税金を払っていようがいまいが、この国に生まれて、人である以上は(平和的)生存権があるし、社会保障としての生活保護は当然の「権利」です。その権利を利用するということは、われわれがバスや電車を使ったり、子どもが学校や図書館に行ったりするのと同じことです。新自由主義の自己責任論がこの30年間、われわれの脳裏に刻み込んできたのは「生活保護に頼る奴はダメな奴だ」ということです。それは生活保護バッシングというかたちで、自民党の片山さつき議員などが散々っぱら行ってきました。またそれを真に受けてしまった鎌倉市は、一時、生活保護を受け付ける窓口を封鎖していましたが、もちろんこれは憲法違反です。官僚や地方公務員は、政治学の言葉ではストリートレベルの官僚制といって、裁量権が結構あります。だから生活保護の申請をする女性にセクハラをする最低な公務員もいますが、そうならないために、徳目として、社会保障とはこういうものですよ、政治とはこういうものですよといったことを解かせる試験を彼らは経てきているはずなのです。そういう学があるはずの人たちですら、生活保護を受けることが悪であるかのように思わせられていて、きっと山上被告もそう思ってしまっていた。辛かったら助けてもらえばよかったのに、そうなるのはイヤだというプライドがあり、彼は器用で頭がよかったので、頑張れてしまった人なのです。自衛隊にも入っていたので体力もありました。途中で頑張れなくなったら、誰かや何かに助けを求めざるをえないはずですが、彼はたまたま能力があり、新自由主義の自己責任論を自分自身の血と肉にしてしまったがために、助けを求めませんでした。
山上徹也被告(写真/共同通信社)
池田 母親によるカルトへの献金のために家族が破綻して、山上被告の兄が弁護士をしていた伯父に電話したりします。祖父とは、家の大変な問題が発覚したときに揉めて、「家から出ていってほしい」と言われたりします。
五野井 山上被告は、自分の兄や妹を背負うのも自分だと思っていました。困っている人が新自由主義の自己責任論を内面化すると、自分をさらに不利にしようとも、すべてを背負い込んでしまいがちです。では、どのようにしたら山上被告は救われたのでしょうか。ジャーナリストの有田芳生さんが言っていたことですが、1995年にオウム真理教の事件があって、破防法の適用云々という話もあり、国としてオウム真理教には対策を講じました。そして、「次は統一教会だな」と政府の関係者が言っていましたが、約30年間動かなかったわけですね。新自由主義の自己責任論を内面化した山上被告はどう思ったでしょうか。国は対処してくれない、ならば、自分がやるしかないと思ったのでしょう。しかも彼は「宗教二世」として、自分はそれを背負わざるをえない運命だと考えてしまったのかもしれません。池田 優しさ故のなせるわざとも言えるような責任感の強さ、まじめさ、そしてそれがある程度できてしまう能力の高さ、そういったものが彼の悲劇を形づくっていったのでしょうか。
五野井 そうですね。しかも、「宗教二世」ということは変えられないことだし、それを運命だと思って彼はまた背負い込んでしまいました。社会学者の内田隆三さんがかつて述べていたことですが、「自分の身の上に起きていることを運命だと思ってしまったら、変えられない。しかしそれが運命ではなくて、社会が自分に不当にも課していることならば、変えられる」。社会は神の定めではないのだから変えられるわけです。山上被告は、30年間放っておかれた旧統一教会の問題を自分で解決しなければならないと思い、そこも含めて自分の「運命」だと思ってしまったのだろうと思います。ここには政治の不作為という問題があるのではないかと思います。池田 山上被告からすれば、父の自死や母の入信、兄の大病から自死などは、すべて自分の「外」から降りかかってくるものですが、目の前の生々しい肉親のことなので、もう一段抽象的に、いま五野井さんが言ったような社会のことを考えることができなかったのでしょう。
写真/shutterstock
著者:五野井 郁夫 池田 香代子
2023年3月24日発売
1,760円(税込)
四六判/176ページ
978-4-7976-7427-9
山上徹也のものとされる全ツイート1364件を精査。山上徹也は、2019年10月13日から「silent hill 333」のアカウント名(2022年7月19日に凍結)で、ツイッターへの投稿を始めたといわれている。そのツイートから見えてくるのは、家族そして人生を破壊された「宗教2世の逆襲」という表層的な理解にとどまらず、ロスジェネと呼ばれる世代に共通する絶望感、悲壮感であった。気鋭の政治学者と社会運動家が、山上の悲痛な叫びから、この30年の現代日本の重い問題をあぶり出す。