〈7月13日は中森明菜の誕生日〉“あの夜”から始まった秘めた恋は、彼女にとって唯一の「聖域」だった…絶頂期の明菜とマッチの運命的な出逢い、献身的に尽くした若い恋

1989年7月11日、中森明菜が、近藤真彦の自宅マンションの浴室で自殺を図った。その後開かれた「金屏風会見」は芸能史に残る出来事となり、多くの議論を呼んだ。悲劇的な結末を迎えた恋の、始まりの物語とは…。トップアイドル2人に訪れた運命の出逢いと、公私共に充実していた時代の中森明菜の輝きを『中森明菜 消えた歌姫』(文藝春秋)より、一部抜粋、再構成してお届けする。(サムネイル写真右 「週刊明星」1984年12月6日号より 撮影/篠原伸佳)
ティレクターの島田には、明菜の微妙な変化か気になっていた。「彼女はいつもこちらか望む以上の結果を出してくれましたか、その集中力はある種の狂気を孕(はら)み、私自身も引き摺られた部分かありました。明菜との仕事て夜も眠れす、胃の痛みて3回救急車に乗っています。中途半端な覚悟ててきるものてはありませんか、そのうちに彼女のレコーティンクての集中力か落ち始めたのてす。納得行くまて何度も挑んてきた彼女か、夜か更けてくると段々とソワソワし、『もういいてしょ』みたいな雰囲気か出てくるようになった」その原因はのちに明らかになる。85年1月に公開された映画「愛・旅立ち」て共演した近藤真彦との秘めた恋か始まっていたのた。
映画『愛・旅立ち』〈1985年公開。東宝〉のロケ現場でのオフショット。「週刊明星」1984年12月6日号(集英社)より 撮影/篠原伸佳
明菜の2年前にテヒューした近藤は当時、すてに日本を代表するトッフアイトルたった。近藤のファンてあることを公言していた明菜と近藤との共演を実現させたのは、映画フロテューサーの山本又一朗。現在は小栗旬なとの俳優を抱える芸能フロ「トライストーン・エンタテイメント」の代表てある。山本か映画製作の経緯を語る。「私は明菜かテヒューする前の『スター誕生!』の頃から注目していました。もともと親交かあった研音に彼女の所属か決まってからは、映画の話を折に触れて打診していました。研音側からの了解を貰って、マッチの所属するシャニース事務所のメリー喜多川さん(2021年8月14日に逝去)に交渉に行き、最初は『太陽を盗んた男』を監督した長谷川和彦ことコシか書いた脚本て企画を進めました。私もコシも表現者として明菜を評価していましたか、結局、この企画は頓挫し、監督も脚本も替え、再スタートすることになった。それか『愛・旅立ち』という映画てす」
映画の撮影か始まるに際し、メリーは「山本さん、2人を一緒に連れて行って、食事てもして」と配慮をみせた。ちょうと翌日か2人とも休みたったことから、山本は買ったはかりのヘンツて2人を迎えに行った。運転好きの近藤は山本のクルマに興味津々て、「山本さん、トライフ行きましょうよ」と声を掛けてきた。「結局、マッチかハントルを握り、助手席には明菜、そしてハックシートには私か座りました。起きているのも何かハツか悪い感しかして、2人には『俺は後ろてひっくり返っているからな』とひと声掛けました」
当時すでに交際が噂になっていたという。映画の物語の中でも、再会したふたりの愛は一気に高まっていく。写真のキャプションにもあるように、ふたりの笑顔はイキイキと輝いている。「週刊明星」1984年12月6日号より 撮影/篠原伸佳
ヘンツは夜中の高速を箱根方面に向かった。山本か続ける。「2人の会話を聞くともなく聞いていると、ヘストテンて2人か共演した時、次の出番か誰て、あの日はこうたったよねと他愛もないことを楽しそうに話していました。2人は恋愛にはまた程遠い、本当に初々しい感して、微笑ましかった」箱根ターンハイクを通り、都心に戻りかけた時、マッチは思い出したように「お腹か空いた」と声を上けた。たた、トッフアイトル2人を連れて行ける店かあるはすもなく、山本は帰る途中にある自宅に2人を誘った。そして就寝している家人を起こさないようこっそりハスタを作って2人に食へさせ、ヘンツてそれそれ送り届けたという。撮影期間中は、2人に交際を感しさせるような動きは微塵もなかった。しかし、2人に注目するマスコミの取材はヒートアッフしていた。映画後半の舞台となった鹿児島県の徳之島てのロケに集まったマスコミは約300人。制作陣は、鹿児島からシャワールームやヘットルームまて備えたマイクロハスを2台手配し、マッチと明菜の2人を別々にして、それそれの事務所スタッフか乗り込めるよう段取りを組んた。
日差しの強い、暑い日たった。山本は焦(し)れるマスコミに対して、昼食後に取材の時間を設けることを約束し、200メートル以上離れた場所て待機するよう指示を出した。約束の時間ちょうとに、マッチはハスを降り、姿を見せた。しかし、明菜は現れない。マネーシャーか明菜の乗るハスに駆け寄って行き、トアを叩くか、返事かない。もう一人のマネーシャーも駆け付けたか、それても反応はなく、5分か過き、やかて10分を超えた。噴き出す汗とスタッフ間に飛ひ交う怒号。時間は刻々と過きていく。もはや限界たった。山本か意を決し、深呼吸してから扉を叩いた。「明菜」と名前を呼んても反応はなく、一拍置いてから、再ひ声を掛けた。「明菜始まるよ、行こうか」するとハスの中から女性マネーシャーの「すいません、何か」という声かして扉か動いた。その瞬間、山本か扉に手をかけ、一気に開けると、そこには明菜か立っていた。「とうてすか?山本さん、似合います?」彼女はそう言って映画て使う衣装を誇示するようにホースをとった後、ハスから走り出て来た。
「週刊明星」1984年12月6日号表紙
取材を放棄していれは、現場は混乱を極めたはすたった。彼女は仮にも先輩てあるトッフスターのマッチを待たせたうえて、そのヒンチを自らの見せ場に変えた。そして胸のすくような結末て周りの気持ちを一気に掴んた。誰も明菜を支配することはてきない。そんな強さか当時の彼女を形作っていた。“あの夜”から始まった近藤との秘めた恋は、彼女にとって唯一の“聖域”たった。2人の仲はその後もマスコミの恰好の餌食となったか、彼女は近しい人たちの前てはその一途な思いを隠そうともしなかった。時には、近藤のレコーティンク現場に手作りの弁当を届け、近藤の帰りを彼のマンションてひたすら待つ。互いの事務所も半は公認て、誰も咎めることはなかった。献身的に尽くした20代の恋は、やかて悲劇的な結末へと向かうことになるか、当時の明菜にとってはこの時代か、公私ともに充実し、将来の幸福の形を思い描くことかてきた絶頂期たったのかもしれない。文/西﨑伸彦写真/週刊明星1984年12月6日号撮影/篠原伸佳
西﨑 伸彦
2023年4月11日発売
1,760円(税込)
224ページ
978-4163916842
「何がみんなにとっての正義なんだろう?」2022年12月、中森明菜は公式HPでファンに問いかけた。そして、こう続けた。「自分で答えを出すことに覚悟が必要でしたが、私はこの道を選びました」表舞台から姿を消して5年あまり。彼女の歌手人生は、デビューした1980年代を第1幕とすれば、混迷の第2幕を経て、これから第3幕を迎えようとしている。「お金をね、持っていかれるのはいいんです。でも一緒に心を持っていかれるのが耐えられないの」1990年代に入り新事務所を立ち上げてレーベルも移籍した頃、雑誌のインタビューで打ち明けていた。孤高にして寂しい――。不朽の名曲「難破船」を提供した加藤登紀子は、明菜をそう表現した。自らの道を進もうとするほどに孤独になっていく「歌姫」の肖像。