晴れ舞台で訴えた「読書バリアフリー」…芥川賞受賞の市川沙央さんに教えられた本を手にして読めることの幸福

私の人生には本が欠かせない。楽しい時も、辛い時も時間さえあれば常に小説に、ノンフィクションに耽溺(たんでき)することで時間を忘れてきた。だが、そんな時間も決して無償で与えられているものではないことを19日に都内で行われた第169回芥川賞受賞会見で教えられた。
背中が曲がった状態を意味する「ハンチバック」という題名を持つデビュー作で新人作家最高峰の文学賞に輝いた市川沙央(さおう)さん(43)さんはこの日、電動車いすに乗り、色鮮やかなオレンジ色のドレスで登壇した。
市川さん自身、受賞作の主人公で重度障害者の井沢釈華同様、筋力が低下する筋疾患先天性ミオパチーという難病により、常に人工呼吸器を使用。同病による症候性側弯症のため、肺を押しつぶす形で背骨が湾曲しているため常に痰(たん)の吸引が必要。発話にも大変な体力を使うリスクを抱えている。
会見に先駆け、選考委員を代表して会見した平野啓一郎氏(48)が「最初の投票から圧倒的な支持を得て、最初の投票で市川さんに決まりました。否定的な意見はなかった。作品としての強さがありました」と明かした圧勝劇。
平野さんに「重度の障害を持つ作者の置かれている実際の状況と作品、社会との関係が非常に高いレベルでバランスが取れていた。困難な状況にある人が必ずしも文才に恵まれているわけではないが、市川さんは困難な状況の中で非常に強度の高い批評性を持っている。文学的な才能で希有な作品を生み出したと思います」とまで言わせた受賞作家は「私は強く訴えたいことがあって、去年の夏に初めて純文学を書きました。こうして、芥川賞の会見の場にお導きいただいたことを非常にうれしく感じています。我に天佑(天の助け)ありと思っています」と、まず話した。
選考委員からの高い評価に「そう読んでいただけて、とてもうれしいです。非常に自信になります」と笑顔を見せると、「(ライトノベル小説などを書き始めて)この20年間、芥川賞を目指してはいなかったので驚いています。墓石に刻もうと思ってたんです。『一生、紙の本が出なかった女』って」と正直に続けた。
「いろんなものをいろんな視点でいろんな形で書いてみたいと思います」と今後について語った受賞作家が最後に「ちょっと生意気なことを言いますが…」と前置きして口にした言葉に私は大きな衝撃を受けた。
「読書バリアフリーへの環境整備を進めてほしい。(障害者が)読みたい本を読めないのは、かなり権利侵害だと思います。障害者対応をもっと真剣に早く進めていただきたいと思います」―。
作品の中で主人公が訴えていたのが、目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店に自由に本を買いに行けることの5つが当たり前と思っている出版界の健常者マチズモ(優位主義)だった。
そう、この日、登壇し、受賞者恒例の記念撮影で分厚い「文學界5月号」と6月22日に刊行されたばかりの「ハンチバック」を手にポーズを取った市川さんが直後に「手が痺れて…」と漏らした声。その本音を“健常者”の私は簡単に聞き流していなかったか。
本の重さに苦しみ、手にすることさえ困難な人がいる―。大の読書好きを自認するくせに、常に空想の世界を楽しんでいるくせに、そんな想像力さえなかったことを、その瞬間、私は恥じた。
会見の中で自身と合わせ鏡のような重度の障害を抱えた主人公を描いたことで選考会でも話題となった「当事者性」について市川さんは、こう言った。
「当事者が((文学界に)いないことを問題視して書いた小説です。重度障害の当事者(による)受賞が2023年にもなって芥川賞で、なぜ初めてなのかを、みんなに考えてもらいたいと思っています」―。
芥川賞受賞会見という晴れの舞台だからこそ、鈍感な私にも、しっかりと届いた障害を持つ人にしか見えない視点からの問題提起。読書好きを公言するならなおさら、毎日のように書店に足を運ぶことができ、一冊の本を手にして、その重さに苦しむことなく読みふけることのできる幸せをかみしめなければならない。
わずか10分間の会見。人工呼吸器を装着しながら懸命に言葉を紡ぐ市川さんの一言、一言に私は数多くのものを教えられた。それは、まるで名作小説を読んでいる時のような貴重な時間だった。(記者コラム・中村 健吾)
◆「ハンチバック」 親が遺したグループホームで裕福に暮らす重度障害者の井沢釈華はWebライター・Buddhaとして風俗体験記を書いては、その収益を恵まれない家庭へ寄付。ツイッターの裏アカウントでは「普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢」と言葉を吐き出している。ある日、ヘルパーの田中に裏アカを特定された釈華は1億5500万円で彼との性交によって妊娠する契約を結ぶが…。
◆市川沙央(いちかわ・さおう) 1979年、神奈川県生まれ。43歳。早大人間科学部(通信教育課程)卒業。卒論で早大の学内賞の最高峰・小野梓記念学術賞を受賞。23年「ハンチバック」で第128回文學界新人賞を受賞し、デビュー。