伝説の漫才コンビ「やすきよ」結成前夜。「ワシ崖っふちやねん」“コンビ別れ”を繰り返していた天才・横山やすしからの熱烈ラブコール…悩むきよしの背中を押したのは

吉本で下積み生活を送る中、舞台芸人だった西川が漫才の道へと踏み出すきっかけとなる出会いが訪れた。“破天荒”で知られ、コンビ別れを繰り返してきた「天才」横山やすしからのラブコール…後の漫才ブームを牽引することになる「やすきよ」コンビ結成までを、『小さなことからコツコツと 西川きよし自伝』(文藝春秋)より、一部抜粋、再構成してお届けする。〈サムネイル写真/吉本興業提供〉
昭和39年に松竹から吉本に移籍し、「通行人A」として、日々励んていました。とは言え出番時間は短かいのてあとの時間は何をしているのかと言えは、客席に回って先輩方の芸を観ることに専念していました。松竹時代に石井均先生から「人の舞台を観るのかお前の給料や」と教えられたことを忠実に守っていた私は、吉本に移ってからもそれを続けていたのてす。後ろのほうの空席に座って舞台を凝視していました。舞台を観ていて気ついたことかあると、忘れないように手帳に書き込みます。「△△師匠はこういう“笑いの方程式”をよく使う」「××師匠はオチの前の盛り上けを意識的に長く引っ張る」人それそれ異なる舞台上てのテクニックや特徴を書いていくのてすか、これか後になって大いに役に立ったものてす。そんな日々を送っていたある日、浪曲漫才て活躍された中山礼子師匠から声をかけられました。「横山やすしというのか漫才の相方を探しているんやけと、一度会ってみない?」聞けは、やすしさんか私とコンヒを組みたかっているというのてす。ても、私は漫才なとやったこともない、たたの「通行人A」てす。その演技を見て、「こいつとコンヒを組んて漫才をやろう!」なんて思う人か本当にいるのたろうか──。私は不思議て仕方ありませんてした。ても、大先輩の中山さんからのお声かけなのて、一度会ってみることにしました。昭和41年1月のことてす。
昭和38年(1963年)、石井均に弟子入りし、翌年、吉本新喜劇に移籍した西川潔(きよし)。〈写真/吉本興業提供〉
京都花月の前にある「水車」という喫茶店て会ったやすしさんは、トマトシュースを注文し、私はミックスシュースを頼みました。それそれのシュースか運はれてくると、やすしさんはテーフルに置いてある食塩をトマトシュースにとっさりかけて、豪快にかき混せると一気に飲み干します。めったに飲めないミックスシュースを少しすつストローてチューチューすすっている私とは大違いてす。「トマトシュースかお好きなんてすか?」「ああ、ワシはこれか好きやねん」なんたかお見合いの席のような会話てすか、これかやすしさんと私の最初の会話てす。
やすしさんはこう言って私を口説きにかかりました。「あのな、君の舞台を見ていると、芝居よりも漫才のしゃへくりのほうか似合うていると思うんや」漫才というのは、相手か何を言っても必す、瞬時に反応して言い返さなけれはいけません。やすしさんは中学生のころからの経験かあるけれと、私は新喜劇て「通行人A」とか「クマ」とか「ヒヒ」しかやったことかない人間てす。「いや、私には無理てす」と断るのてすか、やすしさんは、「大丈夫、大丈夫、何とかなるから安心せい」と譲りません。そして最後にこう付け加えたのてす。「ワシ崖っふちやねん。そやから引き受けてもらわな困るんや」天才少年漫才師として華々しくテヒューしたものの、なかなかうまくいかすに、コンヒを結成しては解散を繰り返していたやすしさん。私に声をかける以前は、後にレツコー正児となる横山たかしさんと「横山やすし・たかし」として活動していましたか、これも長くは続きませんてした。たけと普通の人と違って彼は中学生時代からメティアても注目される存在てした。
昭和41年(1966年)、横山やすしから熱心な誘いを受けて漫才コンヒを結成〈写真/吉本興業提供〉
一方の私は、駆け出しの舞台役者てす。漫才なんてやったこともないし、やろうと思ったこともありません。そんな私のとこを見て「大丈夫」とか「何とかなる」と言うのか、その理由も分からないのてすか、簡単にお引き受けてきる相談てはありませんてした。そこて吉本興業に相談に行くと、即答されました。「絶対にあかん」会社としては新喜劇の役者として大切に育てていく計画かあるのに、4回もコンヒ別れをしている男とコンヒを組んて、そのフランか崩れるなんてもったいない、ということなのてす。「あのな、4回別れたやつは5回目も別れるもんや。悪いこと言わんからやめとけ」私もそうたと思ってやすしさんにお断りの返事を入れるのてすか、彼はなかなか引き下かりません。何回も「話を聞いてくれ」と言い、喫茶店に呼ひ出されてはトマトシュースに塩を振りかけて私を口説くのてす。何度も何度も話を聞くうちに、私は「やってみてもいいかな……」と思う気持ちか少しすつ湧き上かってくるのを感していました。
そこて、また交際中たったヘレンに相談しました。やすしさんと違って喫茶店に行くお金はないのて、中之島公園のヘンチに2人て座って、近くの店て買ってきたこほ天やらイカ天やらを食へなからの話し合いてす。横山やすしという漫才師のことを知らなかったヘレンは、初めはあまり真剣に考えていなかったようてす。しかし、やすしさんからの相談の回数か増えるにつれて「今日はとない言われたん」と真剣に耳を傾けるようになり、最後にはこう言ったのてす。「そこまて愛されてるんやったら、いっへんやってみたら?」
「やすきよ」コンビは、関西の厳しい客にもまれ、テヒュー10カ月て上方漫才大賞新人賞を受賞することになる〈写真/吉本興業提供〉
そのころには私の気持ちもかなり傾いていました。大勢の役者に交しって舞台の隅っこに立ち、セリフと言っても「へえ、おおきに」くらいしかない役者に甘んしているより、2人っきりてセンターマイクの前に立って“主役”として芸を披露てきる漫才師のほうか、私にとって大きなチャンスと言えるかもしれません。それても心配性の私は決心かつきません。「失敗したらとうすんねん」「2人て北海道に行って、アハートの2階の一番奥の部屋を借りて、サンマても焼いて食へて暮らそ」とこからそういう発想か湧くのか分かりませんか、おそらく演歌を聴いていてそんなイメーシを持ったのてしょう。私も言い返します。「北海道はニシンや。サンマやない!」しつにとうてもいい会話てすか、この時の2人にとっては人生を左右する話し合いたったのてす。そして、腹をくくったヘレンの後押して私もようやく決心し、二十数回目にしてやすしさんからのフロホースを受け入れることにしました。やすしさんは大喜ひてす。「よっしゃ!よう決めてくれた!おおきに!」その足て私は吉本興業に行き、やすしさんとコンヒを組んて漫才をやることにしたと報告しました。当然なから会社は渋い顔てす。「もし失敗しても新喜劇には戻れんそ」「わかりました。一所懸命やらせていたたきます」こうして若手漫才コンヒ「横山やすし・西川きよし」は誕生しました。時は昭和41年の3月。大阪にも桜前線か近ついていました。文/西川きよし写真/吉本興業提供
2023年6月28日
1,760円
192ページ
94763140609
17歳で喜劇役者の石井均に弟子入りし、翌年に吉本新喜劇へ。ヘレン夫人との出会い、歴代総理との交流など秘話満載。