まさに”汚名挽回”?エンジン変えたら「大化け」した3つの戦闘機 手のひら返しの評価とは

第二次世界大戦中は、要求した性能を発揮できなかった兵器も多数存在しましたが、そのなかで戦闘機に関しては、エンジンを変えることで予想外の高性能を得た例もありました。
第二次世界大戦では、世界各地の様々な環境で戦闘が行われ、兵器も劇的に発展しました。その発展速度に合わせるため、急ごしらえで兵器を作ってしまい、ときにトラブルの多い機体も生み出しました。
しかし、それら兵器のなかでも戦闘機に関しては、エンジンを換装することで、劇的に性能が向上した例もあります。ここでは、もろもろの問題に困った結果、とりあえずエンジンを交換してみたところ、優秀な性能を発揮した戦闘機について見ていきます。
まさに”汚名挽回”?エンジン変えたら「大化け」した3つの戦闘…の画像はこちら >>イギリス空軍博物館に展示される五式戦闘機(画像:Fairlight )。
太平洋戦争の末期、1945(昭和20)年2月ごろに日本陸軍が開発した「五式戦闘機(キ100)」は、三式戦闘機「飛燕」の機体に、三菱重工業製の空冷エンジン「ハ112-II」を搭載した戦闘機です。もともと「飛燕」向けの川崎航空機製の液冷エンジン「ハ40」や、その性能向上型「ハ140」の供給が間に合わず、多数放置されていた同機の機体を活用しました。
「飛燕」の「ハ40」エンジンは、供給不足のほかにも問題を抱えていました。このエンジンはダイムラー・ベンツ「DB601」のライセンス権を取得して作ったものでしたが、物資不足からクランクシャフトの材料にニッケルを使わなかったという品質での問題や、現場での扱いの難しさが災いし、稼働率がかなり低かったのです。
それに比べ、五式戦闘機に搭載した「ハ112-II」は、海軍では「金星六二型」と呼ばれ、「九九式艦上爆撃機」や「零式水上偵察機」といった航空機への搭載実績があるエンジンの発展型でした。そのため、出力は1500馬力級と「ハ40」を上回りながら、現場での整備性も良好でした。
戦争末期の品質低下や整備上の問題で稼働率の悪い三式戦闘機や四式戦闘機に頭を悩ませていた陸軍にとって、最高速度では三式に及ばないものの、頑丈かつ抜群の運動性を持ち、かつ一式戦闘機にはない高火力を望める五式戦闘機はかなり魅力的でした。現場の評価も上々で、アメリカ軍のP-51とも互角にやり合えると評判だったようです。ただ、終戦間際の工場が次々と破壊された時期だったため、陸軍は大量生産を要請したものの、総生産数は390機程度にとどまったといわれています。
日本の「飛燕」では、ダイムラー・ベンツ製の「DB601」エンジンが問題になりましたが、逆に性能を向上させた例もあります。それが、イタリア空軍が使用した戦闘機MC.202「フォルゴレ」です。
同機の元になったMC.200「サエッタ」は、搭載するフィアット「A.74」という空冷エンジンが870馬力という低出力で、英米の連合国軍機相手に苦戦を強いられていました。そこで、ドイツから1175馬力ある水冷式DB601型エンジンの供給を受け、型式も愛称も改められたのがMC.202「フォルゴレ」でした。
エンジンを除く、機体のデザイン性は良かったこともあり、胴体の高さを低くし、胴体を60cm延長するのみの改良で済んだ「フォルゴレ」は、1941年9月末から実戦投入され、輸送機の護衛や拠点防衛などに従事。「ハリケーン」や「スピットファイア」、P-40 「ウォーホーク」などと互角に渡り合えるようになります。
Large 230925 en 02
イタリア空軍が運用したC.202「フォルゴレ」(画像:パブリックドメイン)。
その後、連合軍機の性能が向上すると、再びイタリア軍機は不利になりますが、今度はDB605というより強力になったドイツエンジンを使用したMC.205V「ヴェルトロ」やG.55「チェンタウロ」などを投入し対抗。イタリア降伏後は、皮肉なことにイタリア国家空軍とイタリア共同交戦空軍という敵味方に分かれて戦うことになります。
第2次世界大戦の勃発直後、ドイツ軍に押されるイギリスは、不足する戦闘機を補うため、P-40「ウォーホーク」戦闘機の購入をアメリカへ申し込みました。しかし、アメリカは自国向けの生産を優先しており、工場が最大限稼働してもイギリス向けの機体は満足に生産できる状況ではありませんでした。
そこで1940(昭和15)年2月に手をあげたのが、イギリス向け練習機の生産実績があった新興のノースアメリカンでした。
社長のダッチ・キンデルバーガーは、設計主任エドガー・シュミードと相談し、P-40よりもさらに高性能な機体をすぐに作れるとプレゼン。細かな要求をつけず「優秀な戦闘機を120日以内に完成させる」という条件で生まれたのがP-51「マスタング」です。
ノースアメリカンは宣言通り、1940(昭和15)年10月には同機を初飛行させます。とはいっても、1942(昭和17)年1月から配備された初期型の「マスタング Mk.I」は「アリソン」エンジンを搭載し平凡な性能であっため、イギリスでは地上攻撃や偵察機として二線級の扱いを受けます。
Large 230925 en 03
大戦中の最高傑作機との呼び声も高いP-51「マスタング」写真はD型(画像:アメリカ空軍)。
これに変化が起きたのは、ロールス・ロイスが同機に目をつけたことでした。同メーカーの技術者は、ロールス・ロイスが誇る「マーリン エンジン」へ換装することを提案。完成したP-51B「マスタング」は高高度性能をアップさせ、空戦性能も劇的に向上します。
そしてアメリカでもV-1650「マーリン」としてエンジンのライセンス生産を行い、アメリカ軍も本格配備を開始。P-51D型以降は涙滴型キャノピーにするなど、広い視界の確保が行われ、最終的には、大戦中の最高傑作機とまで呼ばれるようになりました。