第二次世界大戦が始まる少し前、左右非対称の奇妙な偵察機が公開されます。珍妙な機体ではありますが、ちゃんと要求に沿った、航空力学的にも正しい機体でした。
第二次世界大戦が始まる少し前の1937年7月、ナチス・ドイツで行われた直協偵察機コンペに、造船会社として有名なブローム・ウント・フォスという会社がなぜか参加。BV 141という奇妙な航空機が公開されます。同機はコックピットを胴体から切り離し、これを翼に搭載した左右非対称機でした。なぜこのような珍妙な機体が開発されたのでしょうか。
操縦室の位置なぜそこ!? 左右非対称の変態飛行機「BV 14…の画像はこちら >>奇妙な形状をしているBV 141(画像:連邦公文書館)。
同機の設計を手掛けたのは、リヒャルト・フォークト博士という航空機設計技師でした。ドイツ航空省の「エンジン単発の3人乗りで、視界をできるだけ広く確保できる単発偵察機」という要求に応えるために、コックピットを翼に設置するという奇妙な形を選択しました。つまり、仕様書通りに作って、こうなったということです。
そもそも単発エンジンで3人乗りの偵察機であるという点が困難な要求でした。コックピット以外の乗組員のスペースを確保するには、エンジンと同じく人員を中央に無理やり置いたとしても視界などは限定されてしまいます。
そこで乗組員のスペースやコックピットを右翼側にずらしたのですが、意外なことに操縦性や安定性に大きな問題はなかったそうです。というのもプロペラを搭載した航空機は、プロペラの回る向きと反対の方へ傾こうとする性質がありましたが、それを左右非対称にすることで打ち消していたからです。加えて、重さも人員が乗ると、左右がなるべく均等になるように設定されていました。さらにコックピットが独立していることで、左右や上方のみならず、前方、後方、下方の視界も良好でした。
しかし、同機が採用されることはありませんでした、かわりにドイツ航空省が採用したのはフォッケウルフのFw189という偵察機でした。この機体は、エンジン1基という要求を守っていませんでしたが、採用機体となりました。
BV 141不採用の理由は、エンジンの出力不足であると航空省はしましたが、それは表向きで、ドイツ航空業界の大手であるフォッケウルフに配慮してという説もあるようです。
その後、フォークト技師は納得できなかったのか、エンジンをパワーアップした改良型の試作を許すよう航空省に掛け合い、5機の発注を得ました。しかし、改良機に採用された出力1560馬力のBMW801Aエンジンはパワーがありすぎるため、機体も大幅に改修する必要がありました。
改良型であるBV 141Bは1941年1月9日に初飛行しましたが、エンジントラブルを頻発させることになります。また、そのときは既に、Fw189が量産されており結局、計画は1942年には全面中止が決まります。
フォークト博士はほかにも、コックピットを中央胴体終端部に配した3胴式の高速爆撃機P.170、 左右非対称に加えてレシプロ・ジェットの混合動力攻撃機であるP.194など、異形の航空機を開発しましたがいずれも採用されることはありませんでした。
しかし、戦後はボーイング社などで、ボーイング747の開発に関わるなどしています。実は日本の航空機産業の発展にかなり貢献した人物でもあります。
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テスト中のBV 141(画像:連邦公文書館)。
1924年にフォークト博士はクラウディウス・ドルニエに推薦される形で、日本の川崎造船所飛行機部(後の川崎航空機)に技術協力のスタッフとして派遣され、八八式偵察機や九二式戦闘機の設計に携わります。そのとき、教えを受けたのが土井武夫技師で、戦中は三式戦闘機「飛燕」、戦後は国産旅客機「YS-11」の開発に関わるなど、日本の航空技術発展の歴史に欠かせない人物となります。ちなみに、川崎に派遣されていた時代のフォークト博士はかなり堅実な設計をすることで知られていました。