A-4やF-16と生みの親一緒! ドデカ艦載機A-3が万能だったワケ 「ちょっと小さめにした」その先見の明とは

アメリカ海軍が空母から戦略核の攻撃を行えるよう開発した艦上攻撃機、それがA-3「スカイウォーリアー」です。結局、後継機の誕生や戦略原潜の登場で、その本来の任務は短期間で終わりましたが、汎用性の高さから長生きできたようです。
アメリカの戦略核戦力は「戦略爆撃機」「大陸間弾道ミサイル」そして「潜水艦発射弾道ミサイル」で構成されています。これらは「核戦略の三本柱」とも呼ばれていますが、潜水艦発射弾道ミサイルが1960年代に実用化される前の一時期は空母艦載機による戦略核兵器の運搬・投射も検討され、実際に準備されていました。
A-4やF-16と生みの親一緒! ドデカ艦載機A-3が万能だ…の画像はこちら >>1987年8月8日、旧ミラマー海軍航空基地で撮影したERA-3B電子戦機。胴体の両側にエアタービン発電機を装備しているのが特徴(細谷泰正撮影)。
第二次世界大戦後、アメリカ陸軍から独立したばかりのアメリカ空軍は、多くの大型爆撃機を配備して世界最大の核戦力を構築、いうなれば我が世の春を謳歌していました。当時の核爆弾は大きくて重いため、大型爆撃機以外に核兵器を敵地まで運搬する手段がなかったからです。
一方、海軍では艦載機のジェット化を進めるために空母の大型化を計画していました。空母は大きくなればなるほど建造予算は巨額になります。それを議会に認めてもらうため、海軍は空母に核搭載能力を持つ艦載機を搭載しようと考えます。当時は対ソ連(現ロシア)を念頭に置いた冷戦が本格化の兆しを見せたころであり、国家戦略のひとつである核戦略の一端に絡むのであれば、議会も建造予算を認めるだろうと踏んだからです
そこで計画されたのが空前の大型艦上攻撃機でした。
航空機メーカー各社は海軍の仕様書どおり、総重量10万ポンド(約45t)級の機体を提案しましたが、ダグラス社は総重量6万8000ポンド(約31t)の機体を提案しました。
なぜダグラス社は一回り以上小型の設計案としたのか。その理由は、主任設計者のエド・ハイネマンが考えた将来戦にありました。
彼は核爆弾の小型化が進むことを予想していたため、既存のミッドウェイ級空母からでも運用できる大きさにまとめ上げたのです。この提案はアメリカ海軍の心をつかみ、見事コンペに勝利。ダグラスA-3「スカイウォーリアー」として1954年10月28日に初飛行しました。
設計したエド・ハイネマンはロッキード社のケリー・ジョンソンと並ぶ著名な航空機設計者です。代表作のA-4「スカイホーク」攻撃機をはじめ多くの航空機を生み出してきましたが、特筆すべきは彼の経歴です。高校卒業後、製図工として航空機メーカーに就職したハイネマンは独学で航空工学を習得し、主任技術者にまで上り詰めた特異な経歴の持ち主でした。
しかも彼は、ジェネラル・ダイナミクス社(現ロッキード・マーチン)の技術部門長としてF-16の開発を指揮。これが最後の仕事となりましたが、こうして生まれたF-16がいまだに生産され続ける傑作戦闘機になったことは周知の事実です。
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1999年、退役直前のRA-3B偵察機。アメリカ海軍機ながら内陸部を飛ぶための迷彩塗装が施されている(画像:アメリ海軍)。
そのハイネマンが設計したA-3は高翼配置の後退翼にプラット・アンド・ホイットニーJ57エンジンを吊り下げた双発機です。このJ57は、同系モデルがB-52戦略爆撃機やKC-135空中給油機でも採用された傑作エンジンで、これを搭載したことはA-3が成功した要因の一つといえるでしょう。
海軍の要求を満たすために艦載機としては一番の大きさとなったA-3は、現場では「クジラ」と呼ばれるようになりました。
なお、ハイネマンが予想したとおり核兵器の小型化は進展しましたが、核攻撃機としてのA-3は短期間で終焉を迎えます。さらに高性能なマッハ2級の核攻撃専用艦載機ノースアメリカンA-5「ヴィジランティー」が就役したからです。この影響を受け、A-3は他の任務を与えられます。その一つが、通常爆弾を搭載してのベトナム戦争への参戦でした。
しかし、A-3「スカイウォーリアー」から核攻撃任務を引き継いだA-5「ヴィジランティー」も、潜水艦発射弾道ミサイルが実戦配備されると核攻撃任務から解かれ全機が偵察機に転用されました。しかも汎用性に乏しかったからか、A-3より早く1979年には全機が退役しています。
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1982年10月16日、ポイントマグー海軍航空基地のエアショーで編隊飛行を行うKA-3BとNRA-3B(細谷泰正撮影)。
一方、A-3は艦載機でありながら大きな機内スペースと搭載量を持っていたため重宝されました。攻撃型からの改造も含めて、偵察型、電子戦型、空中給油型など多くの派生型が生み出されています。加えてベトナム戦争中は、神奈川県の厚木基地を拠点に電子情報収集にも用いられていました。さらに一部の機体はヒューズ社(後のレイセオン社)に貸し出されミサイル開発用のテストベッドとして20年以上も使われています。
とはいえ、さすがに老朽化もあって、A-3は湾岸戦争を最後にアメリカ海軍から退役しました。しかし、レイセオン社は海軍が運用していた機体を買い取り、民間登録機として2011年まで運用しています。
こうしてつい最近まで飛び続けていたA-3「スカイウォーリアー」。飛行可能な状態で最後まで維持されていた機体はフロリダ州の海軍航空博物館で展示保存されています。