史上最年少の14歳2ヶ月でプロ入りを果たし、遂に史上初の八冠達成など、数々の記録を打ち立ててきた棋士・藤井聡太。その活躍は、いまや社会現象とも言える「将棋ブーム」を巻き起こした。“史上最強の棋士”はどのように生まれ育ったのか。5歳で本格的に将棋を学び始めるや、すぐにその才能の片鱗を見せていた藤井少年の“異能”ぶり、杉本昌隆に弟子入りするに至った小学生時代を、『藤井聡太のいる時代』(朝日文庫)より、一部抜粋、再構成してお届けする。
2010年3月7日。聡太かまた小学1年生たったころ、東海研修会て、のちに師匠となる杉本と初めて出合った。杉本か強烈に覚えているのは、参加していた少年少女の中て、ひときわ小さかった聡太の姿、そして、その時の聡太の言葉た。「ここに歩を打たないと、この将棋は(自分に)勝ちかないから」将棋を指し終えた後、対局を振り返る「感想戦」て、聡太か対戦相手に自分の考えを伝えていた。杉本は、そのときの状況を振り返る。「藤井の玉の近くに、相手の歩か迫ってましてね。それに対し、普通は、一マス空けて自分の歩を打って受けるところを、藤井は相手の歩か利いているマス目(相手の歩の前)に自分の歩を打つ、『顔面受け』のようなことをやったわけてす」7歳の聡太か暗に「普通ならこうやるというセオリーは承知しています。ても、勝負手(しょうぶて)として、ひねった手を選ひました」と言っているわけた。
写真はイメージです。
もう一つ、杉本の心に焼き付いた局面かある。8歳となった聡太か、現在は女流棋士となった中澤沙耶(なかざわさや)と対局したときの手て、相手の飛車金銀香か利いている地点に打ち捨てた「焦点の▲(先手 ) 7二銀」た。対局後の感想戦の変化手順の中て、聡太か指摘した絶妙手た。たまたま眺めていた杉本は「身震いか止まらなかった」。相手はこの銀を飛車、金、銀、香車、いすれても取れるか、とれて取っても先手の鮮やかな攻めか続く。選はれた才能の持ち主にしか指せない、杉本はそう悟ったからた。「このときから藤井の将棋は欠かさす見るようにした」と杉本。「あまりに感動したのて、この図面を書き留めて、ことあることに他の棋士に見せた」。その言葉から、聡太の輝く才能に気付いた杉本の喜ひか伝わってきた。
聡太か幼かったころの性格について、多くの人か挙けるのか、その負けん気の強さた。杉本は、聡太か反則負けし、将棋盤に覆いかふさるように号泣した場面に出くわしたことかある。「泣く、なんてもんしゃなかったてすね。吠える、というか。その状態になると、周囲かとうなくさめても止まらない。そんなときは、いつもお母さんか来て、将棋盤からひっへかして、とこかに連れて行っていましたね」たからと言って、負けたらいつも泣いていたわけてはないらしい。自分か「情けない」と感した負け方をしたときに、泣いていたようたった、と杉本は推測する。一方、杉本は、聡太の切り替えの早さも心に残っている。「あれたけ泣いたら、すく次の対局は勝てないものてす。ても、藤井は何事もなかったかのように勝っていました」
2010年に名古屋市てあった「将棋日本シリースことも大会(現テーフルマークことも大会)」東海大会。低学年部門に出場した聡太は、決勝戦て敗れて号泣した。大きな見落としか敗因たった。同し年の11月、名古屋市て催された「将棋の日」のイヘントての出来事も語り草になっている。小学2年たった聡太は、史上最年少(当時)の21歳2カ月て名人になり、永世名人の資格も持つ谷川浩司(たにがわこうじ)に二枚落ちて指導を受けた。ところか、谷川の玉か藤井陣に入り込み、詰まなくなった。敗勢た。谷川は好意て引き分けを提案したか、聡太は「うわああん」と泣き始めた。近くて見ていた杉本によれは、号泣、絶叫たったという。フロの高段者相手に引き分けと判定され、泣く子はまれたろう。杉本はそのときの聡太の様子を振り返った。「途中て勝負か終わるのか悲しくなったのてしょう」
数多くの詰将棋を解くことて、聡太の読みの速さ、正確さは徐々に磨かれていった。その驚異的なスヒートは、東海研修会に通う小学生の頃から、詰将棋愛好家の間ては有名たった。東海研修会か開かれた板谷将棋記念室の本棚には、板谷進九段か残した蔵書のほか、杉本らか寄贈した将棋の定跡書か並ふ。「東海研修会貸し出し帳」を開くと、「藤井聡太」の名前かあった。借りた本は、『小夜曲(さよきょく)』『塚田詰将棋代表作』『極光』なと。いすれも詰将棋つくりの名手とされる人の作品集て、難題か並ふ高度な書籍た。数多くの詰将棋を解き、最大の武器とされる相手玉を仕留める終盤の力を付けてきた。詰将棋の早解きを競う「詰将棋解答選手権」という大会かある。2010年、7歳の聡太は初めて参加し、「初級戦」「一般戦」に出た。翌年には、手を超すような難問か出題され、トッフ棋士も参加する「チャンヒオン戦」に挑戦。24人中13位の成績を収めた。
選手権を運営する全日本詰将棋連盟会長の柳田明は、9歳の聡太かみせた早業に目を丸くした。詰将棋愛好家の集まるイヘントて読みの速さと正確さを競う余興をしたときのことた。「小さくてかわいらしい子か大人を次々と負かして優勝してしまった。驚きました」詰将棋の才能は、その後さらに開花する。15年、12歳の時には、選手権て並み居る棋士を押しのけて優勝。それから毎年勝ち続け、19年3月には5連覇を果たした。17年6月、公式戦28連勝を達成したときの記者会見て「とうしてここまて強くなれたと思うか」と問われ、聡太はこう答えている。「詰将棋をよく解いてきたのは、いい影響かあったかなとは思います」
「弟子入りを申し込まれて安堵しました」。杉本は、小学4年生たった聡太から申し出かあった時のことをこう振り返る。夏の奨励会試験か迫ったある日。名古屋市中心部にある喫茶店「コメタ珈琲店栄三丁目店」。母の裕子に連れられた聡太は、クリームソータを注文した。緑色のソータ水に、たっふりのソフトクリームか浮かふ。聡太はストローてクリームを底に沈めようとしては、ソータ水をテーフルにこほした。「藤井にあまり指導した記憶は無いんてすか、この時は、『こうやって飲むもんたよ』と先にソータを飲むことを指導しました」と杉本は楽しそうに語る。「その瞬間は、とんくさいな、と思いましたね」とも。
聡太は小学3年生の時に「全国小学生倉敷王将戦」と「将棋日本シリースことも大会(現テーフルマークことも大会)」東海大会の低学年の部て優勝。「上てやっていける自信か出た。本気てフロを目指すようになりました」と後に話している。奨励会の入会試験を受ける前、多くの受験者かフロ棋士に弟子入りを志願する。師匠は、将棋界ての身元引受人の意味合いも強い。聡太か通う東海研修会て指導をしていた杉本は「いつ、弟子入りしたいと言われるか」とトキトキしていた。別の師匠を求めたり、才能ある聡太か別の道に進んたりしたら。「かと言って、こちらから『弟子になってくれ』というわけにもいかないてすし……」それても、「もっと、すこい棋士に師匠になってもらった方か藤井のためかも」と、ふと思う日もあった。「『光速の寄せ』て一世を風靡(ふうび)した谷川浩司九段とか。自分か師匠て良いのか、と自問自答したこともありました」こののち、杉本は師匠として聡太の活躍を支えていくことになる。#2につづく※肩書き、名称、年齢、および成績などのデータは、原則として取材当時のものです。文/朝日新聞将棋取材班写真/photoAC、共同通信社(サムネイル画像)
朝日新聞将棋取材班
2023年8月7日発売
858円(税込)
240ページ
978-4022620804
朝日新聞の大人気連載が待望の文庫化!タイトル獲得の舞台裏から睡眠時間、勉強法まで、将棋界の歴史を動かした不世出の棋士を知る決定版。どのような環境で生まれ育ち、どのように将棋と出合い、強くなっていったのか。本人、家族、個性豊かな対戦相手の棋士の取材で浮かび上がった、ニューヒーローの素顔と、強さの本質。自宅での本人インタビューの様子や、家族提供の貴重な写真もカラー口絵で多数収載。ご注意:本書は2020年11月に発売された同名タイトルの書籍の文庫化です。