旧日本軍の戦車たちは敗戦後どうなった?「更生戦車」の行方 “はたらくクルマ”へ魔改造の数々

太平洋戦争の終結後、国内に残された多くの日本戦車は連合軍の命令で廃棄されました。ただ、車体は様々なものに転用され戦後10年経っても日本国内では200両以上が現役だったそうです。
日本がアメリカに対して総力戦を挑んだ太平洋戦争。この戦争に負けた日本は、アメリカを始めとした連合国の命令によって軍が解体されたほか、国内に残された多くの兵器が廃棄されました。しかし戦車に関しては意外にも相当な数の車体が戦後復興用として建機や重機などに改造されています。
戦後復興用に改造された戦車は、「更正戦車」と呼ばれ、全国で使われました。その生き残りが、このたび静岡県御殿場市のNPO法人「防衛技術博物館を創る会」に引き渡された九五式軽戦車を改造したブルドーザーです。
更生戦車が産声を上げたのは、1945(昭和20)年8月15日の日本の終戦から間もなくのこと。日本を占領したアメリカ軍を含む連合国軍最高司令部(GHQ)は9月下旬、これまで行われた軍需産業の禁止と連合軍に接収されていた軍需物資の日本への返還および民間への転用を日本政府に指示します。加えてその1か月後には、本土決戦用などで残されていた装甲車両についての民需活用法が日本側から提言されました。
旧日本軍の戦車たちは敗戦後どうなった?「更生戦車」の行方 “…の画像はこちら >>北海道の(株)中山組が1949年に導入した、九七式中戦車ベースの更正戦車。オープントップの操縦席前方には、土砂の流入を防ぐためか左右ハッチ付きの板が設けられ、風雨を防ぐために社名が書かれた幌も装着している(@2010 nakayamagumi Inc.)。
同法の主な骨子は以下の4つになります。1:中戦車・砲戦車・自走砲は土工具を付与し開墾・戦災地復興・他の土木事業へ2:軽戦車は牽引車代用には非効率なので分解して部品取りおよび屑鉄へ3:軽装甲車(日本は履帯式)は山地・不整地等での牽引車代用へ4:装甲兵車はそのまま運搬用車両へ
また10月30日には連合軍立ち会いの元、三菱重工東京製作所の丸子工場で戦車改造農耕トラクターの試験が行われ、のちに2両が東京都へ納入されています。
そして11月10日には、GHQより115両の戦車と50両の装甲兵車を民間に転用するための改造が許可されます。こうして「更正戦車」は数を増していきました。なお、戦車の改造は、砲塔や車体機銃座が外されてから車体側面下部にアームが取付けられて、ワイヤーで車体前方の排土板(ドーザー)を上下させる構造で、基本的にはオープントップでした。
このとき改造対象に指定された戦車は、九七式中戦車(チハ)とその改良型(新砲塔チハ)のみでしたが、後には一式中戦車(チヘ)もブルドーザーに改造されて東京都などに納入されています。
また装甲兵車は全装軌式の一式装甲兵車(ホキ)と半装軌式(ハーフトラック)の一式半装軌装甲兵車(ホハ)の両方であったと思われ、東京都ではホハ車の改造車両をゴミ収集車として使用する写真が残されています。
1946(昭和21)年7月2日には、兵器処理委員会からアメリカ陸軍第8軍に提出された転用戦車の使用許可願いが受理されます。そしてGHQ認可のもと、主に中戦車は三菱重工で、軽戦車は神戸製鋼や小倉製鋼(現日本製鉄)、加藤製作所、池貝自動車(後に小松製作所に吸収)などの指定工場で改造されました。
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(株)中山組が自社の機材として使用する、九七式中戦車ベースのブルドーザー。こうして見るとチハ車時代に比べて割合に高い位置に操縦席があり、一人でも操縦しながらドーザー操作が可能であった事がわかる(@2010 nakayamagumi Inc.)。
これらは戦災復興院や農林省、鉄道省などの各省庁や東京都、北海道、鳥取県、福岡県などの地方自治体、さらには中山組や藤田組などの民間企業にまで払い下げられて、その代金は国庫に返納されています。その後も1950(昭和25)年頃まで更正戦車の改修作業が続き、その数は推定でも200~300両に達したといわれています。
また戦災復興院が購入した更正戦車は、さらに各公共団体に有償で貸し付けられ、戦後復興の土木工事などで重用されています。また一部のチハ車改造ブルドーザーは、1948(昭和23)年8月に起きた映画会社「東宝」の労働争議への強制執行にも警視庁予備隊(現:警視庁機動隊)と共に出動しています。
後の出版物において、このときの労働争議にはアメリカ軍戦車が投入されたことになっていますが、記録写真を見る限りでは全て元日本軍戦車を改造した更正戦車でした。また、東京都内が大雪となった1951(昭和26)年2月15日には、チハ車改造ブルドーザーが除雪作業を日比谷や新橋、両国などで行っています。
こうして、方々で多用された「更生戦車」でしたが、元々は廃物兵器利用のため、その性能は専用に開発された機材に比べて劣っていました。それは前述した通り戦車は高速移動を重点にして設計され、低速で高トルクが求められる農機や建機とは出発点が違っていたからです。
とはいえ、払い下げ並びに月々の貸し付け金額の低さや機材不足により、戦後しばらくは「更生戦車」も脚光を浴びていました。しかし数年後には経年劣化が始まり、また国産の農機や建機が増え始めたために次第に更正戦車は姿を消して行きます。
加えて1950(昭和25)年6月に朝鮮戦争が勃発すると、それによる特需が始まったことで屑鉄の値段も高騰。戦前の放射性コバルトを含まない良質の鉄でできた改造戦車は次々とスクラップになりました。
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1959年に警視庁の観閲式で撮影された、九五式軽戦車改造の装甲車「工作車」。左側には英軍のクォード・ガントラクターに投光器を搭載した特殊車両が見える(画像:月刊PANZER編集部)。
そうした更正戦車の歴史を紐解く中でひとつの謎があります。それは前ページで述べた陸軍兵器行政本部からの提言では、“軽戦車は部品取りおよび屑鉄へ”とあったことです。
しかし実際は、それに反して九五式軽戦車の改造ブルドーザーや除雪車、牽引車として多用されたようで、それらの記録写真は数多く残っています。たとえば北海道では、バス会社が積雪時に橇(そり)付き客車を牽引する「バチぞりバス」として1955(昭和30)年頃まで使用していました。
また警視庁は1953(昭和28)年に九五式軽戦車を改造した装甲車「工作車」を導入しています。一方、九四式軽装甲車(TK)や九七式軽装甲車(テケ)など履帯式の軽装甲車は、試作車両を除いて実際に使用された更正戦車仕様の写真は見られません。これは、もしかしたら提言書が軽戦車と軽装甲車の記述を取り違えていた可能性も推測されますが、今後の研究が待たれます。