[あなたのナゼにココホル取材班] 小学生の頃、米軍基地に忍び込み「ちくちん、ちくちん」と唱えてお菓子をもらった-。半世紀前のハロウィーンの証言を10月31日の本紙で取り上げた。報道後、「うちは別の言い方だった」という声が寄せられて調べると、「トリック・オア・トリート(お菓子くれなきゃいたずらするぞ)」の沖縄版が少なくとも9種類あったことが分かった。(中部報道部・平島夏実) 聞かせてもらったのは、米軍統治下を含む1962~78年ごろの話。5人前後の男の子がお菓子をもらいに行くことが多かったという。狙いは忍びこんだ基地内にある一軒家か、民間地の「外人住宅街」だった。 米軍キャンプ瑞慶覧西側の宜野湾市伊佐の合言葉は「ちくちん」。東側の同市野嵩は「ちこちん」。中間の同市普天間では両派が混在した。 「パイプライン通り」沿いに外人住宅街があった市大山は、同じ小学校区でも「ちくりん」「てぃくてぃん」「てぃこてぃん」の3種類があった。同じ通り沿いの同市真志喜は「てぃくてぃん」。 米軍牧港補給地区(キャンプ・キンザー)の関係者が住んでいた浦添市港川は、照屋恵一さん(56)によると「ちくとぅりーん」。同じように外人住宅街が広がる北谷町北前は「とぅーかーとぅりー」で、だいぶ英語の発音に近い。■いつも空腹 貴重な催し 工夫こらし仮装 子どもたちはいつも空腹だった。1972年の復帰を境に、一気に豊かになったわけでもない。 浦添市城間の男性(62)は近くの教会から洋服をもらって育った。体調を崩すと牧師に診てもらい、病院に行くべきか判断した。宜野湾市真栄原の男性(68)は「普段お菓子なんてない。畑のトマトを盗んだ」。同市大山では4人家族が4畳半に住み、2階の3LDKを海兵隊員が1人で使ったという証言があった。 貧しい日々、ハロウィーンにもらえるお菓子は貴重だった。仮装なしでは通用しない地域もあり、子どもたちは工夫をこらした。宜野湾市普天間の一部ではマチヤグヮーの茶色い紙袋を頭にかぶった。市大山にいた仲間千善(ちよし)さん(61)は風船に顔を描き、自分の首にテープで貼った。「そのままだとダラリと垂れているから手で支えた」という。 オレンジ色で円すい形の紙帽子を差し出したり、黄色い通学帽を裏返したりしてお菓子を集めた子もいた。チョコやキャンディーだけでなく、10セント硬貨も。 復帰後は実入りが減り、お菓子にカミソリが混ざっていたという話が残る。89年のハロウィーンの日には、嘉手納基地に住む米国人の高校生らが沖縄の釣り人を銃で撃つ事件も発生した。 どこの地域でも共通していたのは「こじき祭り」「こじきの日」という呼び方。中学生のころに参加しなくなり、ハロウィーンという言葉を大人になって知ったというケースが多い。 本紙でも、本島中部の小学校クラブ活動で異文化理解のために体験した、などの記事が出てくるのは90年以降だ。「こじき祭り」の文字は今まで一度も記事に出てこない。 「こじき」の響きに心を痛めた親もいただろう。当時の記者は、あえて書かなかったのかもしれない。「ちくちん」や「ちくとぅりーん」 半世紀前「トリック・オア・…の画像はこちら >>
県内各地のトリックアトリート1962―78年ごろ