ヒトラー専用列車がなぜ「アメリカ号」? 敵国名を付けた「走る大本営」の末路

かのヒトラーには「移動する総統大本営」の役割を持った専用列車がありました。その名は「アメリカ号」。当時、アメリカはドイツの敵国だったはずですが、なぜアメリカ号と命名したのでしょうか。散髪室まで備えたという列車の謎に迫ります。
かのヒトラーは戦前から積極的に欧州を動き回り、移動中でも執務が行える特別の専用列車を使っていましたが、その名は「アメリカ号」でした。アメリカはドイツにとって第二次世界大戦を戦った敵国のはずですが、なぜ「アメリカ号」と命名されたのでしょうか。当時のヒトラーの外交関係認識を推し測るうえでも興味深いものがあります。
ヒトラー専用列車がなぜ「アメリカ号」? 敵国名を付けた「走る…の画像はこちら >>4連装の20mm対空機関砲を備えた警護車の脇を、愛犬を連れて歩くヒトラー。
「アメリカ号」の運用は、ドイツ軍がポーランドへ侵攻した3日後の1939(昭和14)年9月3日から始まりましたが、この時点でアメリカは敵国ではありませんでした。命名動機には諸説ありますが、当時ナチス高官の専用列車には大陸名を付けることが流行ったようで、ヒトラーがヨーロッパの白人によるアメリカ大陸の征服開拓に敬意を持っていたからというものが有力です。その頃はヒトラーの中に、アメリカは敵という認識はあまりなかったといわれています。
また、ドイツ軍で広く歌われ、日本では戦車アニメで有名となった『エリカ』という曲から取ったという説もあります。ほかにも空軍総司令官ゲーリングの専用列車には「アジア号」、ドイツ国防軍最高司令官専用列車には「アフリカ号」と命名しています。
「アメリカ号」はポーランド戦が始まると、「移動する総統大本営」としての役割を担いました。首都ベルリンと別荘のあるベルヒテスガーデン、総司令部のあるウォルフシャンツェなどとを頻繁に行き来し、外国訪問や時には前線近くまで進出しました。ヒトラーの移動手段というだけでなく、外交やプロパガンダの舞台にもなったのです。
列車の編成は、ヒトラー専用客車と会議用車、食堂車、寝台車、浴室車、幕僚随員車、ゲスト用客車、通信車、警備要員車、電源荷物車、到着地で使用する専用乗用車を運ぶ平台貨車など組み合わせて10~16両で、前後には2基の20mm対空機関砲を搭載した護衛用車両を連結しました。約200名が乗車し、2両の機関車が重連でけん引しました。
ヒトラーの専用列車ですから、絢爛豪華かつガッチリ装甲で覆われているようなイメージがあるかもしれません。当時珍しかった冷暖房空調装置を備えていましたが、車内は意外に質素で実用的、ゲーリングの「アジア号」の方がずっと豪華だったそうです。また驚いたことに防弾装甲は施されていなかったようです。連結されていた対空機関砲も実際に火を吐くことはありませんでした。
特徴的なのが散髪室も備えた浴室車です。ヒトラーは独裁者らしく常に見られていることを意識して身だしなみには気を使っていたとされ、浴室車は容量1万1000リットルの水タンクを備え、満水時には車重78tにもなり編成の中で最も重い車両でした。
大本営としての機能は万全でした。外国の外交団も迎えられるような会議室や記者室があり、無線通信、各駅施設から接続できる有線電話、暗号装置も備え、移動中でも全国に司令を発することができました。
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「アメリカ号」の対空機関砲を備えた警護車。こちらは単装20mm機関砲で、警護車も何種類かあったようだ。
「アメリカ号」は1943(昭和18)年2月1日に「ブランデンブルグ号」へ改名されますが、アメリカが参戦して敵国になったのは1941(昭和16)年のことであり、改名まで長い時間が経過しています。この時間差の原因ははっきりせず、固有名詞に拘りはなかったのかもしれません。ちなみに改名後も非公式に「アメリカ号」と呼ばれることはあったようです。
ドイツの敗色が濃くなって、ヒトラーがベルリンの総統地下壕に立て籠もるようになると、「ブランデンブルグ号」に乗ることはなくなり、最後には専用客車を破壊するよう命令します。
ヒトラーは1940(昭和15)年、フランスを降伏させた独仏休戦協定の舞台装置に、第一次世界大戦時の意趣返しとして、ドイツの休戦協定締結に使われた食堂車を引っ張り出しましたが、同じように自分の客車を屈辱のシンボルにされるのを避けたかったようです。
1945(昭和20)年5月7日午後3時頃、ヒトラーの客車はオーストリアのタウアーン線マルニッツ駅(現・マルニッツ-オーバーヴェッラッハ駅)南にあるデーゼンバッハ渓谷に架かる高架橋まで運ばれて爆破され、残骸は峡谷に落とすという徹底ぶりでした。
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専用列車の脇を歩くヒトラー(右)とリッペントロップ外相(ナロドウェ・アーキウム・サイフローエ, Public domain, via Wikimedia Commons)。
一方、ナチス高官用のほかの客車は占領した連合国幹部などが使用しました。ゲーリングの「アジア号」は1955(昭和30)年9月、西ドイツのコンラート・アデナウアー首相がドイツ人捕虜の返還交渉にモスクワへ赴く際に使用されました。当時ソ連には西ドイツ大使館がなく、「移動する大使館」として機能したのです。その後1974(昭和49)年まで西ドイツ首相が使用しています。
また、親衛隊のトップだったハインリヒ・ヒムラーの客車「シュタイヤーマルク号」は西ドイツ大統領用となり、1965(昭和40)年にエリザベス2世が初めてドイツを国賓訪問した際や、ビートルズのドイツツアーの移動用にも使われました。この賓客たちが豪華列車のルーツを知っていたかは定かではありません。