大王製紙元会長の井川意高さん(59)の著書「熔(と)ける 大王製紙前会長 井川意高の懺悔(ざんげ)録」(双葉社のち幻冬舎文庫、715円)、「熔ける 再び そして会社も失った」(幻冬舎、1760円)が異例のロングセラーとなっている。文庫版「熔ける―」は2017年に出版され、累計20万部を超えた。創業家3代目御曹司は自らの生い立ちや海外カジノのバカラに興じて106億8000万円を失い、有罪判決を受けた転落劇の全てを生々しくつづっている。YouTubeで積極的に発信し、若手経営者の相談役になるなど活躍を続ける井川さんが語った。(久保 阿礼)
いわく、ギャンブルは「蠱惑(こわく)的」だった。誰もが知る製紙会社創業家の3代目。丁半バクチに近いという「バカラ」はエリート御曹司の心をひきつけ、揺さぶった。世界中から、富裕層が集うシンガポールの「マリーナ・ベイ・サンズ」、マカオの「ウィン・マカオ」で繰り広げた死闘。勝ち負けの刺激はそれまで感じたことのない強烈なものだった。脳内からアドレナリンなどの刺激物質は分泌され続けた。飲まず食わず72時間、賭け続けたこともあった。「地獄の釜の蓋を開けた」。井川さんはそう振り返る。
日本が右肩上がりの成長を続けていた1964年。父・高雄さんの長男として生まれた。幼少期は京都、米国で過ごし、帰国後は小学6年2学期まで愛媛県伊予三島市(現・四国中央市)で育った。県東部、高速道路の中央結節点にあたるこの場所で、約1200坪ある屋敷で暮らした。
成績は良く、活字は好きだったが、いわゆるガリ勉タイプではない。富裕層への嫉妬からか、教師から「お前の工場から出ている煙は公害だ」と嫌みも言われたが、父から化学式を使って製紙会社の煙は99%が水蒸気であることを教えてもらい、教師に反撃したこともあった。
父のしつけは厳しく、時に、バットやゴルフクラブで叩かれることもあった。小5の時、東京への旅行ついでに受けた代々木ゼミナールの模擬試験で全国2位に。父の異動のため、東京で暮らすことになり、国内有数の進学校として知られる筑波大駒場中、高に進んだ。そこでは学習指導要領を“無視”した授業が行われていた。
「今では考えられないですが、中核派を自称する先生もいましたね。別の先生からは、中3で加速度円運動の公式を覚えさせられて、物理が嫌いになりました(笑い)。日本史の授業では(大隈重信が失脚した)明治14年政変を1年かけてやり、高2で明治15年、高3で明治16年と、3年しか進みません。基本的に授業はしっかりしていて出席7割、試験7割で進級できる、という感じでした」
卒業生の7割以上が東大に進んだこともあるという超進学校。先輩から受け継がれた参考書を使い、東大法学部に現役で合格した。
「大学は文系ですし、レジャーランドですよ。単位ギリギリで出席だけという授業も多かったですね」
87年に大王製紙に入社し、専門学校で簿記を学び、工場などの現場も経験した。巨額の赤字を抱えた関連会社の経営再建も担い、金融機関とのタフな交渉にも出向いた。おむつのブランド戦略や販売方法などを大幅に見直した。時にダイエーの店頭に立って、ライバル社に挑んだ。
「うちは大手に押されて、負け犬みたいでした。互いに別の部署の責任にするという蛸壷(たこつぼ)状態でした。そこで、縦(上司・部下)・横(同じ部署間)・斜め(他部署間)の会議をやって部長、課長、係長を集め、問題点を洗い出して方針を決めました。『連携を深める』とか抽象的な言葉には、数字を基にツッコミました。製紙会社は値段以外で売るすべを知らなかったのだと思いますね。店頭に陳列してもらい、お客さんに手を伸ばさせるかっていうことを地道に考えて、CMを流し、販促金を出す。勉強になりましたね」
組織が徐々に一つになっていくのを感じた。長期休暇もなかったが、ただ目の前の課題に向き合った。
「一度、極限までやると自信がつくものです。部下が納得できるように指示して説得して、最後は人間力、リーダーシップでしょうか。きれいごとで人は動きませんから。あと、3代目は無能な経営者とは思われたくなかった。根はこんな感じなので、仕事は砂をかむような思いで、ちっとも面白くなかったですが(笑い)」
「夏休みの宿題は8月31日にやって終える」という超短期集中タイプ。組織を動かす魅力も感じていた。だが、陥穽(かんせい)は意外な場所にあった。2007年6月、42歳の若さで5代目の社長に就任し、2年が経過した頃だった。週末になると、海外のカジノへと通うことが習慣になっていた。賭け金は次第に大きくなり、感覚も麻痺(まひ)していく。
「お金はゲームの点数に近いと思います。ある時、150万円が23億円になったことがありましたが、やめませんでした。23億でやめないから、23億にできると説明しています。これで高級車が買えるとか、現金に見えてしまう人はやめてしまう。M&Aを繰り返して会社を大きくするのも、一緒の感覚かもしれません。ただ、生産性のあることと、アホがやることという違いはありますが…」
カジノでは、VIP待遇となり、「ジャンケット」と呼ばれる代理人がついた。カジノへの交通手段など身の回りの世話もしてくれる。種銭が足りなくなれば用立ててもくれた。
「大負けしても貯金があるからいいや、と。最初は資産管理会社から借りて、10億くらいになったけれども、1回、大勝ちして全部返しました。そういうのダメですね。何とかなると思ってしまったのです。そういうの本当にダメです。でも、地獄の淵まで行ったけど、生還できたっていう方がしびれるのです。父には、FX取引で穴を開けた、と。ギャンブルとは言えませんでしたね」
手持ちはなくなり、関連会社からの借り入れを始める。創業家の持ち株比率が高い関連会社7社を選び、10年5月~11年9月まで総額106億8000万円に達した。同11月には東京地検特捜部に会社法違反容疑(特別背任)で逮捕され、社会に大きな衝撃を与えた。借金も完済し、執行猶予の可能性もあったが、最高裁まで争うことになり、懲役4年の実刑判決が確定。約3年2か月の刑務所生活を送る。仮出所した日は16年12月14日。くしくも、その日はちょうどカジノIR法案が成立した日だった。
最近はYouTubeなどで、産業構造の分析や政治などについて語り、ユーザーは順調に増え続けている。大きな失敗はしたが、自身を頼って訪れる若手経営者には惜しみなくアドバイスを送る。
「鉄は国家なり、紙は文化のバロメーター、なんて言われた時代がありました。きっとどこか傲慢(ごうまん)だったのでしょう。今、業界4位の会社の社長でなくて本当に、良かったと思います(笑い)。日本は既存産業の保護が強すぎて、歴史的に見ても自己改革する力があまりないですよね。人口が減り、産業構造の変化が起きて、明るい未来ってなかなか見えないですけど、悲惨な未来にはしたくないな、と。日本は人脈社会なので、若い経営者には人を紹介したり、アドバイスもします。若い世代には頑張ってほしいなと思います。私が政治家になる、ですか? 父は昔、そうなってほしいと思っていたと思いますが、全然ありません(笑い)」
◆井川 意高(いかわ・もとたか)1964年7月28日、京都府生まれ。59歳。東大法学部卒業後、87年大王製紙入社。07年社長、11年会長。著書に堀江貴文氏との共著「東大から刑務所へ」(幻冬舎新書)。