隣り合わせたラーメン店があります。片方は行列ができていて、もう片方はできていない。あなたはどちらのお店がおいしいと思いますか? おそらく、多くの人が「行列ができているほう」と答えるでしょう。そして、「それはあなたの思い込みですよ」と指摘したのなら、多くの人は「おいしいから、行列ができているんだ!」と答えるでしょう。はい、それこそが思いこみというやつです。味覚は人によって違いますので、どちらのラーメン店がおいしいかは、両方食べてみないとわからないはずです。
○何を言うかより、誰が言うか。偉人が言うと刺さるのは……
私たちの生活の中にバイアスはあふれていますが、代表的なものは信念バイアスではないでしょうか。これはいい結果が出た場合、その人の言動はすべて正しいと思われてしまうけれど、反対に悪い結果でると、やり方や考え方などそこに至る過程がすべてだめだと否定されてしまうことを指します。一言で言うと、「何を言うかより、誰が言うか」です。偉人の名言というのは、信念バイアスの最たるものではないでしょうか。一般庶民が言ってもスルーされてしまうことでも、偉人が言うと、さすがだ、刺さる!というふうになる。
ですから、スゴい人の発言だからといってうのみにするのは危険なのですが、スゴい人でなければ言えないことがあるのも事実なのです。日本が世界に誇る元野球選手・イチローは引退後、時折、高校生に野球を指導しているそうですが、以下のような話をしたとされています。
○イチローの名言「高校生たちに自分たちに厳しくして自分たちでうまくなれって酷なことなんだけど、でも、今そうなっちゃっているからね」
「今の時代、指導する側が厳しくできなくなって。何年くらいなるかな。僕が初めて高校野球の指導にいったのが、2020年の秋、智弁和歌山だね。このとき既に智弁の中谷監督もそんなこと言っていた。なかなか厳しい、厳しくするのはと。でも、めちゃくちゃ智弁は厳しいけど。これは酷なことなのよ。高校生たちに自分たちに厳しくして自分たちでうまくなれって酷なことなんだけど、でも、今そうなっちゃっているからね」
プロ野球のあるスター選手のYouTubeチャンネルを見たことがあります。その選手の出身校は、甲子園の強豪校として有名で、寄宿舎制を取っていたそうですが、野球に関しては実力主義で、一年生であっても力があるとみなされたら、主力選手と共に練習や試合に参加できる。しかし、寄宿舎に帰ったらそうはいかず、生活には厳しい決まりがあったそうです。たとえば、下級生と上級生は同部屋ですが、下級生は上級生より早く起きなくてはいけない。その際に、自分の目覚まし時計の音で起こしてしまうと、先輩の睡眠を阻害してしまうため、自力で起きるという、何とも意味の分からないものでした。先輩の不興を買うと、暴力を振るわれたそうです。厳しい練習やケガなど、苦しい経験を積んだであろうプロ野球選手たちが、「あそこでの寮生活ほどしんどいものはない、二度と戻りたくない」と話していることから考えると、理不尽と暴力が正当化された環境だったと言えるのではないでしょうか。
「意味のある厳しい指導」もパワハラとみなされ、消えようとしているのでは
甲子園というのは、高校のイメージをあげるのに一番効果があると言われているそうです。そうなると、学校側は学校の名前を高めてくれる指導者を監督として迎えいれます。指導が実を結んで強豪校になると、そこからプロ野球の道に進むこともできる。そうなると、全国の野球少年は、プロ野球選手を目指して、その学校を目指すようになるでしょう。学校が強くなれば、監督のやり方は信念バイアスによりすべて肯定され、意味のない暴力をふるったとしても“愛の鞭”と言われてしまう。学生にしても、実力があるからこそ強豪校に入れたものの、試合に出られるのかは全くの別問題。こうなると、鬱憤がたまって、自分に歯向かえない人をいじめることでストレスを解消してしまうのでしょう。下級生が周囲に訴えても、野球部の不祥事が明るみになれば、甲子園に出られなくなってしまうので、部も学校も隠避し、誰も味方をしてくれません。オトナの都合、もっと言うとビジネスのために、子どもが犠牲になるのです。
こういう指導法や環境がおかしいとされるようになったのはいいことですが、イチロー氏のいうように「意味のある厳しい指導」もパワハラとみなされ、消えようとしているのではないでしょうか。高校生は伸び盛りの子どもですから、大人が導いてあげなければならない。しかし、彼らがパワハラだと感じ、スマホで録音をしてSNSや週刊誌に訴えたら、強豪校こそ話題になってバッシングされる。これは会社でも同じことで「言おうかと思ったけど、やめた」「言うと、自分が嫌われるから損」だと思って、若い人を放置していることもあるのではないでしょうか。
○経験を踏み挑戦しないと上手にならないこともある
ある人生相談にこんなものがありました。「自分の価値は自分で決める」と思っている25歳の女性は、友達がいても続かず、恋愛経験もない。ご両親とも仲が良く、推し活もしているが、私の人生はこれで大丈夫なのかというものでした。これに対する有名人のお答えは、「一人に飽きたときに、ゆっくり始めればいい」でした。おそらく、相談者はこのやさしい回答にほっとしていることでしょうから、大正解なお答えです。けれど、私に言わせると、これは「タチの悪いやさしさ」なのです。
新入社員の時にできなかったことが、一年後には難なくできるようになるように、経験は人を育てます。特に友達や恋人というのは人間関係の一種ですから、ある程度、経験を踏まないと上手にならないでしょう。いろいろな人に出会い、会話をかわすことで見えてくることがたくさんあると思います。25歳の今であれば、すんなり挑戦し習得できることも、年齢が上がると、女性の場合はまもなく結婚や出産で「ただでさえ友達と疎遠になりがちな20年」が来ますし、男性も年齢が上がれば既婚者も増えるので「初めて好きな人が出来たと思ったら、不倫だった」なんてことにならないとも言えない。25歳というのは、一歩踏み出してみるのに最適な時期と言えるのではないでしょうか。
けれど、このようなことを言うと「結婚しろと言われた、意見を押し付けられた」と言われかねないので、かしこい人は黙っている。かつては、親の判断力がちょっとアレでも、学校や職場できちんとした指導を受けることも可能でしたが、今はこういう時代ですから、学校や職場も「触らぬ神に祟りなし」なのではないでしょうか。
みんなが思っているけれど、自分が損をするから口にしない。そんなお題に切り込めたのは、世界のイチローだから。バイアス(思い込み)には注意したいところですが、彼でなければ言えないこともあると今後に期待したいと思います。
仁科友里 にしなゆり 会社員を経てフリーライターに。OL生活を綴ったブログが注目を集め『もさ子の女たるもの』(宙出版)でデビュー。「間違いだらけの婚活にサヨナラ」(主婦と生活社) が異例の婚活本として話題に。「週刊女性PRIME」にて「ヤバ女列伝」、「現代ビジネス」にて「カサンドラな妻たち」連載中。Twitterアカウント @_nishinayuri この著者の記事一覧はこちら