「突然、天井が落ちて叫び声をあげた記憶はあるんですが…」17時間、倒壊家屋の下敷きになり奇跡的に救助された男性(77)が語る恐怖体験「不思議と喉は渇かず、空腹も感じませんでした」〈ルポ能登半島地震・珠洲市〉

最大震度7を観測した石川県・能登半島地震。その震源である珠洲市では、発生から124時間ぶりに90代の女性が救出された。半島の先端に位置し、津波にも襲われ、いまだ被害の全容がつかめない珠洲市を6日、取材班が歩いた。
奥能登最大の飯田港を抱える同市飯田町の商店街の真ん中で、婦人服から学校指定のジャージ類まで幅広く衣服を取り扱う「衣料ストアーサカシタ」の店舗兼住宅も、激震で倒壊した。創業約130年と、街の歴史とともに歩んできた老舗の三代目店主、坂下重雄さん(77)は取材にも、「前科はありませんし、氏名も公表して大丈夫です」と冗談混じりに笑顔を見せてくれた。しかし、約17時間も倒壊家屋の下敷きになり、なんとか消防隊員に救出されたその体験は、想像を絶するものだった。
“現場”を指さす坂下さん(撮影/集英社オンライン)
「能登地方は昨年の5月5日にも震度6強の地震があったので、元日も最初の揺れでは『また地震か』くらいに思っていたんです。しかし、2度目の揺れ方は直感的に危ないと思い、咄嗟にコタツに飛び込んだんです。しばらく様子を窺おうと思う間もなく、突然天井が抜け落ちて目の前に迫ってきてコタツの上にどすんと衝撃がきました。『天井が落ちた』という認識と自分が『ギャーッ』という叫び声をあげた覚えはあるのですが、その後は少しの間、失神してしまったんだと思います。次の記憶は、真っ暗闇の部屋のコタツの中で身動き取れない状態でした。腕のあたりを少し動かせる程度で体は動かせず、こたつを押すこともできませんでした。天井が落ちたことはわかっていたので、『家族は大丈夫だろうか』と思っていました」
「衣料ストアーサカシタ」の店内(撮影/集英社オンライン)
この日は妻に加え、正月で帰省していた娘と20代の孫息子がいた。結果的には3人とも無事に逃げ出し、逆に姿の見えない父を心配していた。坂下さんの娘が、地震直後の様子を振り返る。「すごい揺れ方をしたと思ったら、今度はものすごい音がして、息子が『じいちゃんが、じいちゃんが』と叫んでいるのに気づきました。私たちがいた2階の部屋は崩れ落ちはしなかったのですが、お父さんがいた1階の部屋は、ぺしゃんこの状態でした。お母さんと息子が父に声をかけ続けても返事がなく、正直この状態を見て『父は生きてはいないだろう』と思いました。それに私たち3人もすぐに津波から逃げなきゃいけないという状況でした」
必死で避難した後も、安否がわからないまま坂下さんを残した家を津波が飲み込む危険性があった。坂下さんの妻が続けた。「避難してからお父さんの携帯に電話してみたら、驚いたことに出て『大丈夫、大丈夫』って言うんですよ。それが1月1日の17時ごろでした。お父さんは『ベッドが折れ曲がっている』など、少しの状況はわかるようでした。その後も電話でのやり取りが何回かできたものの、時間がたつにつれて『大丈夫』という声は力なくなっていました」坂下さんはたまたまコタツのそばに携帯電話を持ってきていたので、無事に避難できた家族に自分の状況を伝えることができ、希望が繋がった。
救助された際の坂下さん(親族提供)
坂下さんが言う。「家族と電話できたことで『助けにはきてくれるだろう』と安心しましたね。いつ崩れるかわからない状況でしたが、不思議と死ぬかもしれないという悲観的なことは思いませんでした。何も考えてない状態というか。こたつの幅分の空間の中で体の位置もほとんど動かせない、何もできない状態でもありました。最終的に私が助け出されたのは地震から17時間後だったのですが、その間、喉は渇かず、空腹も感じませんでした。さすがに眠れないし、断続的に起こる余震でときおりガサガサ、ガタガタという音は聞こえましたが、それでも恐怖はなかった。何も考えてない、何も考えられない、やっぱりそんな感じだったように思います。私自身は津波が迫ってきているのも知らなかったので、暗闇の中で考えていたのは家族の無事だけだったように思います」坂下家の眼前には海が広がっており、周辺には津波被害を受けた家も多数あった。津波がギリギリ到達しなかったのは、奇跡かもしれない。「家族の要請で一度は消防隊員が来てくれたんですけど、道具がないから取りに戻るということで、何時間も戻ってこなかったんです。私が消防隊員の方に両脇を引かれ救出してもらえたのは、地震発生から17時間後の1月2日の午前9時でした。今もトラウマになるようなことはないのですが、救出後はなんだかヨロヨロしてますね。店もレジが潰れてしまったし、もう続けられないですね」
取材に応じてくれた坂下重雄さん(撮影/集英社オンライン)
坂下さんは救出時に家族が撮った写真を手に、激動の17時間を振り返った。救出された1月2日は喜寿を迎える誕生日だった。今年の年賀状には「ボケずに元気に朗らかに」と記していたそうだ。
飯田町の海沿いに住む運送業の男性(59)は津波から避難し、被災後初めて戻ってきた自宅の惨状に唖然としたという。「避難所にいてもやることねえから戻ってきたんだけど、もう何から手をつけていいかわからねえ。水が玄関部分にまで侵食して冷蔵庫は使いものにならねえし、タンスもひっくり返っとる。とりあえず元日の夜に親戚と食べる予定だったおせちと寿司を、腐るからと思って処分してたとこだ。それと今日、一緒に住んでいた親父が金沢に避難するっていうんで、これまで親父が大事に育ててきた文鳥を逃がしたんやけど。この状態じゃ世話もできねえからな。でも、やっぱりここにいたいんかな、なかなか飛んでいかなくてな…。オヤジは『おう、(文鳥を)自由にしてやれ』と言ってたけど、俺は弱いから、その瞬間に涙が出てきてな…。やっぱり長年一緒にいたペットを失うのは本当にツラいよ」
文鳥がいた鳥かご(撮影/集英社オンライン)
男性はたびたび涙を滲ませながら、地震当日の津波の様子も振り返った。「孫たちと近くの堤防で釣りをしていて、夜から親戚一同で集まる予定だった。でも、孫たちと自宅に戻ってすぐに、これまで体験したことのない地震が来てな…。最初の揺れは大したことなかったけど、外に様子を見にいこうとしたときに2回目の地震がきて、咄嗟に電柱につかまっても立ってられないほどの揺れで飛ばされて転がったんだ。その瞬間に津波を予感したし、珠洲市の防災無線で『津波が来ます、早く逃げてください』とアナウンスがあったから、親戚全員で車に乗って高台にすぐに逃げたよ」
津波によって流されたトラック(撮影/集英社オンライン)
いったんは避難したものの、持病のある父母の薬を取りに自宅に戻ろうとした男性は、今まで感じたことのない恐怖にとらわれた。「自宅に帰ろうとしたら、とんでもない光景が広がっていた。堤防のほうから、高さ1メートルは優に超える波がサーッと押し寄せてきた。津波といえば、ザザザーっと大きな波音を立ててくるもんだと思ってたけど、全然静かで、それがまた不気味だった。雪を一カ所に集めた5メートル四方ぐらいの雪山があったんだけど、それがまるでオホーツク海の氷山のように波に流されているのも見えて、唖然としたよ。幸い、津波が来る前に近所の住民もみんな避難できたけど。俺は運送業だからよ、まったく仕事が再開するメドも立ってねえ。本当に不安な気持ちで一杯だよ」また、グループホーム勤務という女性(64)も途方に暮れていた。「ご覧の通り私の家も津波でしっちゃかめっちゃかだよ。まぁ、それでも片付ければ住めそうだから壊れたり崩れたりした人たちよりはまだマシだったと思うよ。仕事は1月3日から出勤してる。私はケガもなく動けるわけだから、来て欲しいって職場から言われたからね。職場の同僚にも家が倒壊したり大変な目にあって仕事ができない人もいるし、もっともっと大変な人たちはたくさんいる。そう思うと働かなきゃな、ってなります。今は道の状況も悪いし渋滞もひどいから、職場まで車で2時間くらいかけて通勤しています。職場も地震の被害を受けていて、入居者をひとつの施設に集めたり、イレギュラーなこともあります。でも認知症の方もいますから、食事や排泄の世話も誰かがやらなきゃ困ってしまいますしね」漁師を休業中だったというこの女性の夫は、津波で自分の船も失ってしまったという。「それもあって私が働かなきゃって思ってるわけ。周りの被災者もけっこう働いてるよ。私も体育館で避難生活してて、配給された水を沸かしてカップヌードルなんかを食べたりしてるけど、ぐっすり眠れるわけもなくて。でも、もっとひどい目にあってる人もいるからね。ただ、やっぱりお風呂に入りたいわね。着替えは家に戻ればできるけど、今はまだお風呂は入れないから。本当は家族でゆっくり温泉でも行きたいんだけどね」
津波により多くの船がひっくり返されていた(撮影/集英社オンライン)
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