長野県松本市の住宅街で猛毒のサリンがまかれた「松本サリン事件」から今年で30年。事件を起こしたオウム真理教の教祖、麻原彰晃こと松本智津夫元死刑囚の三女、松本麗華さんはいま、何を思うのか。時事YouTuberで笑下村塾代表のたかまつななが話を聞いた。
ーー麗華さんはオウム真理教にはいつ入ったのですか?私はオウム真理教に入信をしたことはないので信者じゃないんです。5歳のときに千葉の船橋の家からオウム真理教の静岡県富士宮市の総本部に引っ越して、教団での生活が始まりました。(松本麗華さん、以下同)ーー幼いころはどんな家庭環境だったんですか?船橋のとき父は不在がちで、母と3人の姉妹とで過ごしていました。当時は幼稚園に通っていました。あとは父と母のケンカが多かったかもしれない。
松本麗華さん
ーーどんなお父さんでしたか?父は子煩悩でしたね。育児に積極的に関わってくれて、その意味では現代の父親像に近いかもしれないですね。父が教祖になったあとですが、幼稚園の運動会の応援に来てくれたことがありました。そのときは雨が降ったので、父が「瞑想で止める」と言ってパイプ椅子の上で蓮華座を組んで瞑想している写真が残っていて。ちょっと恥ずかしかったけど、うれしかったです。ーーお母さんは何をされていたんですか?母は専業主婦で、ご飯を作ってくれたりしていました。あまりコミュニケーションをとるのがうまい人じゃないので、子どもが泣いているのをどうやって泣き止ませたらいいかわからなくて叩いちゃうとか、そういうところはありました。ーー5歳から13歳の間に、サティアンというオウム真理教の宗教施設で過ごされたそうですが、小学校は行っていたんですか?小学校は1日も行ってないです。入学式も行ってなくて。たぶん教団内で話し合いがあって、「そもそも学校に行かせる意味は?」みたいになっちゃったんだと思います。ーー本当は学校に行きたかったですか?学校に行ってれば給食を食べられたし、もうちょっと栄養状態がよかったかな。富士に引っ越したばかりのときの主食はオウム食というもので、根菜を水で煮たものと豆乳と豆腐と納豆とご飯だけなので、成長期の子どもにとってはタンパク質も足りないし、栄養が偏っていたなと思いますね。ーー勉強はどうしていたんですか?家庭教師として(教団の)いろいろな人がついてくれたんですけど、私が勉強から逃げ回ってしまって、9歳ぐらいになっても平仮名も読めない状態でした。だから9歳のときに父がいきなり本を100冊買ってきて「これで勉強しろ」って。1冊3回ずつ読むというのをやって、11歳ぐらいのときにはようやく少し読めるようになりました。それでも13歳のときはまだ自分の名前を漢字で書くことができませんでした。
ーー地下鉄サリン事件(1995年)が起きた当時、麗華さんは11歳でしたが、教団が事件を起こしたことを知ったとき、どう思いましたか?知ったのはいつかというと、事件が起きたときも違うし、強制捜査が入っているときも違うし。当時は(教団が事件を起こすなんて)ありえないと思っていたので、いつなんだろうな……。ーー捜査で急にいろいろな大人がやって来てびっくりしたんですか?急な強制捜査で、捜査官はタバコ臭いし、土足で入ってくるし、壁とかどんどん壊していくし、何が起こっているの?って感じですね。父からは「抵抗しちゃだめだよ、危ないから」って言われて。当時は11歳でよくわからないし、説明もないしで混乱しました。サリン事件という言葉自体は認識していましたが、一般の方と同じぐらいの認識だったと思います。オウム真理教によって起こされたよって伝聞で聞いているような感じでした。
ーー麗華さんが12歳のときにご両親が逮捕されました。そのときはどういう心境でしたか?父が逮捕されたときは本当にショックでした。世界が終わっちゃうみたいな。朝起きて、父の顔を見て、介助をして、部屋に戻ってマンガを読んだりして…という感じで父がいるのが当たり前で育ってきていたので。もちろん母が逮捕されたときもそれなりにショックで。ショックなことがありすぎて、よくわからなくなっていましたね。ーーお父さんの介助をしていたんですか?父が全盲になっちゃったので、道を歩くときに道を教えてあげたり、道案内しながら見える景色を教えてあげていましたね。すごい風が吹いていて、木の葉がいっぱいだよとか。ーー今で言うヤングケアラーみたいな。今風に言うとそうなのかもしれないです。妹や弟の面倒も見ていて、私が6歳のときにはもうおむつを替えてミルクもあげてと、ひと通りのことはできたようにも思います。ーー教団が崩壊しそうな中、麗華さんはいつから教団を運営する側に回ることになったんですか?実際のところは、幼すぎて運営なんてできるわけもないんですけどね。長老部の座長という立場にされたんですけど、自分の名前も書けない、足し算引き算もできない12、3歳の子供なので、意見を言うだけで怒られてしまうこともありました。ーーそれは麗華さんが望んだことなんですか?全然望んでいないです。私が望んでいたのは学校に行くことでしたから。両親が逮捕されたときに、「もしかしたらこれで学校に通えるかも」って思ったんですよ。そうしたら富士宮市の教育委員会が、「こんな騒ぎになっているので受け入れられません、ごめんなさい」って頭を下げてきて。小学6年の年のときでした。
ーー教育を受ける権利があるのにそれはひどい。ほかにも、麻原彰晃の娘ということでどんな苦悩がありましたか?小さいころは週刊誌やテレビに追われて大変でした。スーパーで買い物をしていたら「アーチャリーでしょ」って声をかけられて、怖いから逃げるとカメラマンやリポーターが追いかけてきて路地裏みたいなところに追い詰められて……。「取材に答えるので逃げているところや買い物しているところは放映しないでください」って言って取材を受けたのに、結局、約束を守ってくれなくて「逃げているアーチャリーを捕まえた」みたいな報道をされたり。
ーーその報道に社会的意義があるとは思えないですね。全く理解できない。怖かったです。今でも誰かに追いかけられる夢を見ます。ーーその後、教団から離れることができたのはいつだったんですか?24年前。16歳のときにちょうどオウム真理教が解散して、松井武弁護士と出会えたことなどいろいろなきっかけがあって、学校にも行きはじめることができました。ーー弁護士の松井先生とはいつ出会って、どんなことを言ってもらったんですか?私が自分の住居に入ったことを「住居侵入」とされ、逮捕されたときに弁護してくださったのがはじめです。そのあとも、観察処分のときに身元引受人になってくださって。毎月1回はお会いして、「問題を一個一個分けて考えてみようね」って、そういう話をしてくださいました。ーー麗華さんにとっては教団外で自分のことを真摯に考えてくれる信頼できる人だった?父のことも、「あの事件の麻原彰晃」みたいな感じの扱いは一切されなくて、「私のお父さん」として話してくれました。そのことですごく尊重してもらえた気持ちになりましたね。個人として認めてくださったし、社会で生きていく術も教えてくださいました。
取材/たかまつなな(笑下村塾)
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