近藤真彦、“不適切にもほどがあった”ヤンチャ伝説「マスコミのカメラにペンキ」「女性アイドルの顔を笑って…」芸能記者が感じた、中森明菜との温度差

最新話が放送されるたびに、なつかしのワードや80年代にホットだった有名人に再スポットが当たる金曜ドラマ『不適切にもほどがある!』(TBS系)。集英社オンラインでも、ムッチ先輩のモデルとされるマッチこと、近藤真彦のかつての人気ぶりを紹介した。今回はそんな若かりしころのマッチのもうひとつの顔について、当時を知る人たちに話を聞いた。
80年代に、アイドルとして絶大な人気を誇っていた近藤真彦。ドラマ『不適切にもほどがある!』でも、“ムッチ先輩”こと秋津睦実(磯村勇斗)がマッチに憧れまくっているなど、当時、いかに彼が人気者だったかはドラマの描写からもうかがうことができる。しかし、当時のマッチを語るうえで外せないのは、そのヤンチャぶりだ。芸能リポーターの城下尊之氏は、アイドル全盛期のマッチの印象をこう語る。「私はサンケイスポーツの文化部記者時代に何度も直撃やインタビューをしましたが、10代のころの彼はヤンチャ少年がそのままデビューしたという感じ。僕らにタメ口だし、礼儀なんてあったもんじゃありませんでした。それどころか、出演していた『3年B組金八先生』(第1シリーズ。1879~80年放送)の収録の合間の囲み取材では、足元に置いてあったハケでカメラマンのレンズにペンキを塗って『ギャハハ!』なんて笑ってましたね。高額なレンズをダメにされたカメラマンは半泣き状態でしたが……(苦笑)」
「週刊明星」(昭和58年9月22・29日合併号)
いたずらの対象はマスコミだけではなかった。あるアイドルウォッチャーは言う。「アイドル時代のマッチを知る人たちが当時を述懐する、2020年放送の新春特番『マッチに賛否両論ぶつけてみた!~マッチってイイ人?悪い人?~』(テレビ東京系)では、同局系の往年の歌番組『ヤンヤン歌うスタジオ』で司会を務めていた「あのねのね」の清水国明さんや原田伸郎さんが、マッチと共演したときのとんでもエピソードを語っていました。なんでも、楽屋の仕切りにある壁の上部には隙間があったそうなのですが、隣がマッチだったときは、そこからぞうきんやミカンの皮、ざるそばなんかが飛んできたそうです(笑)。原田さんは急に楽屋に入ってきたマッチにお腹を何度も踏んづけられもしたそうで……。ふたりとも大先輩なのに、マッチは本当に怖いもの知らずだったんでしょうね」
マッチ本人も、当時について「芸能生活を学校の部活程度のものと考えて真剣さを欠いていた」との発言をしたことがあったが、芸能系のある女性コラムニストはアイドル時代のマッチについて「それにしても悪ふざけがすぎていた」と振り返る。「ある女性アイドルのことを『あいつ、死人の顔みたいだよな!』と周囲に言いふらしたり、別の女性アイドルが歌番組で歌っているときに本人にも聞こえるようにクスクスと笑ってバカにしたり……。だから女性アイドルからはかなり嫌われていましたね」
恋仲の噂があった当時、誌面で共演したマッチと明菜(「週刊明星」1984年12月6日号より。撮影/篠原伸佳)
そんなマッチと交際していた女性アイドルが中森明菜だ。ふたりの愛の顛末は中森の自殺未遂&“金屏風会見”にて破局を見せるが、まだふたりの関係が噂程度だったころに共演した映画『愛・旅立ち』〈1985年公開〉の記者会見に出席した城下氏はこう振り返る。「あの日、事前に『マッチと明菜の恋仲についての質問は一切しないように』と念を押されたのですが、『お互いにとって、どんな存在ですか』という質問をしたんです。すると明菜さんがじっくり真剣に考えたあとに『すごく……大きな存在です』と答えたのに対して、マッチは『一緒にいて楽しいです』とサラっと言った。すでに恋愛関係にあっただろうに、思いの深さに差があるなと感じたものです」
その後、1994年に一般女性と結婚し、2007年に待望の第一子を授かったマッチだが、2020年11月に25歳年下の会社経営者との不倫が発覚。この責任をとるかたちで、翌年4月に40年以上所属したジャニーズ事務所を退所した。しかし、この決断にも批難の声が。前出のアイドルウォッチャーは言う。「東山紀之さんは『退所の仕方に疑問が残る』と苦言を呈し、『ありがとうジャニーズありがとう素敵な後輩達ありがとうジャニーさん』と結んだマッチの退所コメントについても『薄っぺらく感じる』と切り捨てていました。東山さんはアイドルとしてストイックに生きてきた人だから、自由気ままな姿勢のマッチとは相いれない部分もあったかもしれませんね」
「週刊明星」(昭和57年12月16・23日合併号。撮影/青柳宏伸)
悪評も少なくないマッチだが、「当時、低迷していたジャニーズ事務所を救った男であり、その功績は非常に大きい」と語るのは城下氏。「ヤンチャだけど、事務所が新体制へと移行して指針となるべき先輩がいないなか、睡眠もろくに取らずに働くなど、性格は人一倍負けず嫌い。そのがんばりもあって、ジャニーズアイドルとして初めて日本レコード大賞を受賞しています。さらに、その後レーサーになったりと枠にとらわれないアイドル像をつくりあげたのはスゴイと思います」前出の女性コラムニストは、マッチがレーサーになった背景をこう説明する。「車好きのマッチはもともと運転が荒く、事務所もいつ事故を起こすかヒヤヒヤしていました。マッチは”ジャニーズ事務所の長男”とも呼ばれ、メリー(喜多川)さんから『うちのナンバーワンはマッチ』と寵愛を受けてきた。周囲は誰も彼を叱ることができなかったから、荒い運転を見かねたメリーさんが『せめてレースにしなさい』とライセンスを取得させ、レースを勧めたといいます」今も昔も破天荒なマッチ。数々の“火遊び”をしてきたからこそ、40年後も語られる存在になりえたのかも。取材・文/河合桃子集英社オンライン編集部ニュース班