震災からセンバツ参戦の東北OBが日本航空石川ナインへエール「負い目」より「信じて」…東日本大震災から13年

東日本大震災は11日、発生から13年を迎えた。2011年にセンバツ高校野球大会に出場した東北(宮城)は被災直後という苦しい状況の中、1回戦で大垣日大(岐阜)と対戦。0―7で敗れたものの、アルプススタンドから称賛の拍手を浴びた。今年は能登半島地震の被災地である石川・輪島市の日本航空石川が、23日に常総学院(茨城)との初戦に挑む。当時の東北の選手に13年前の気持ちと、同じ状況でセンバツに臨む日本航空石川ナインに対する思いを聞いた。(樋口 智城)
2011年3月11日。仙台市泉区の野球部グラウンドで練習中だったナインを、立っていられないほどの揺れが襲った。当時3年の控え投手だった片貝智晴さん(30)は「発生の瞬間、甲子園は無理だなって思いました。子どものころからの夢でしたが、正直言って夢どころじゃない感情でした」と振り返る。
翌日から部員全員で、支援物資運搬などのボランティアを始めた。片貝さんは「出場はあきらめていたのに、避難所の人が次々と『甲子園、頑張ってね』って励ましてくれるんですよ」。応援してくれる被災者の声。「絶対出られない」から「出てもいいのかな」と、気持ちは変わっていった。
震災から5日後の16日に出場が決定。五十嵐征彦監督からは「勝ち負けはどうでもいい。一生懸命な姿を見せろ」と発破をかけられた。「僕らは子どもでした。避難所のおばあさん、監督・コーチ、大会出場へ尽力してくれた方々。大人の助けがないと前に進めなかった。今も『甲子園に出た』とは人前で言いません。出させてもらった意識が強いから」と話す。
甲子園では大垣日大相手に完敗。片貝さんは9回に1イニングを0点に抑えたが、記憶はほぼない。「終わった時は『やり切った』だけ。悔しいとか夏に戻って来ようという感情は湧きませんでした」。スタンドへあいさつに走ると、つんざくような歓声。ようやく、自分が甲子園でプレーしたことを実感した。「あの声援で、ちょっとは被災者の方に貢献できたのかなと感じることができました」
一方、6番で1安打を記録した当時2年の齋藤圭吾さん(29)は「あの試合、後悔しています」と言い切る。「全力を出し切りましたが『全力の全力』が出せなかった」。試合中も、心の片隅に「本当に出場していいのか」「プレーするのが申し訳ない」という葛藤があったという。「少しでも負い目があれば『全力の全力』は出せない。応援してくださる方々が想像以上にいることを、理解できていなかった」
だからこそ、齋藤さんはこれからセンバツに臨む日本航空石川の選手に伝えたいことがある。「自分がやっていることを信じ、応援してくれる人を信じてプレーしてほしい。僕のような後悔、絶対にしないでもらいたいですね」
◆被災から大会までの東北野球部
▼2011年3月11日 岩沼海浜緑地球場で練習試合の予定が、当日朝に急きょ中止。代わりに練習を行っていた仙台市内のグラウンドで被災
▼12日 近隣の中学校で炊き出しなどのボランティア活動を開始
▼14日 寮の電気が開通
▼15日 野球部全員とその家族の安否確認が取れ、夜に出場の意思を固める
▼16日 大会参加を正式表明
▼17日 全体練習を再開
▼18日 高野連が予定通り23日から大会を開催すると正式決定
▼19日 仙台市内の寮からバスで山形空港に向かい、空路で大阪入り
▼20日 帝京可児(岐阜)との練習試合で約4か月ぶりの実戦
▼23日 大会開幕
▼28日 1回戦で大垣日大に0―7で敗戦