25年も店を続けた父が入院…復帰信じてラーメン屋台を守る3人の子供達 客と過ごした“感謝の年越し営業”

岐阜県関市で、20年以上にわたり中華そばを作り続けてきた屋台がある。しかし、店を切り盛りしてきた店主が体調を崩して入院し、3人の子供たちが店を守ることになった。ラーメンが繋ぐ「親子の物語」を取材した。
2022年12月、岐阜県関市の住宅街を、チャルメラを鳴らしながら走るラーメンの屋台。
子供たち:「だるまらーめん!おー、ここだよ!こっちに来てくれ!」屋台の女性:「はーい、お待たせしました!2つね」提供しているのは、昔ながらのシンプルなしょうゆ味の中華そばだ。
岐阜県関市で、25年続く屋台の「だるまらーめん」。
夕方から営業し、チャルメラの音に誘われて老若男女、様々な人がやってくる。男性客:「うまいっす」女性客:「なかなかこういう、昔ながらの食べられないから、毎月の楽しみ」 店を営むのは、安田真美さん(52)と…。
妹の河村加代さん(50)ら、きょうだい3人だが、もともとは…。
男性客:「今日、お父さんいないんですか?」真美さん:「今日、お父さんちょっと具合が悪くて。味を引き継ぎながらやっています」真美さん:「今は、父が体調を崩しちゃって、入院しちゃってるんで…」
25年間、ずっと1人で切り盛りしていた父・正夫さん(79)が、2022年の秋に体調を崩し入院。
復帰するまでの間、きょうだい3人で店を続けていた。真美さん:「体調悪くても『ゆで卵、ゆでたか?』とか、そういうのは、寝ながらもそういう言葉が出るんで。なんかやっぱりおってほしいね、ここにおってほしいなって」

長女の真美さんは普段、手作り弁当の販売をしている。父親が倒れてからは、夜の屋台の仕事と掛け持ちだ。
真美さん:「大量に作る時は、真夜中から作っているので。その時は本当に寝てないですね」 12月上旬、忙しい合間を縫って、真美さんが妹の加代さんと励んでいたのは、ラーメンのチャーシュー作りだ。真美さん:「これ(豚のバラ肉)、めっちゃ丸められるけどいい?」加代さん:「『丸めたらアカン』って言っていたよ」真美さん:「そうやろ?(2つに畳んで)こうやろ?」加代さん:「で、OKやろ?」
真美さん:「(父が)煮ているところは何回か見ているけど、巻いているところは見たことなくて、本当にイチから。うちはチャーシューで売っとるもんで」
加代さん:「失敗するとアウトなんですよ。こんなのをやってたかと思うと」真美さん:「すごいよねー。今、3人でやるだけで目一杯なのに。よう全部1人でやっとるなと思う」 下準備が終わったところで、真美さんが病室にいる正夫さんにテレビ電話を掛けた。加代さん:「あー、来た来た」真美さん:「あー、やっほー!」加代さん:「やっほー!」病室にいる、父・正夫さん(79)だ。
正夫さんは外出できないため、今はテレビ電話だけがやり取りの手段だ。
正夫さん:「(バラ肉を巻いたものを)横に一本な」加代さん:「はーい。よし、入ったよ!」正夫さん:「OK、OK。ほんで、しょう油たっぷり入れて」加代さん:「はいよ」病室から正夫さんがチャーシューの作り方を細かく指示する。

加代さん:「(タレの分量が鍋の淵まで)2センチぐらいになったよ?」正夫さん:「2センチか、もう少し入れていい。1センチ5ミリぐらいまでいけよ」
加代さん:「1センチ5ミリ?難しいんやて、それが。こんなもん?」正夫さん:「よーし、OK」2人:「はーい」
加代さん:「元気そう、よかった。毛、伸びたね」正夫さん:「うん?」加代さん:「毛、伸びた」正夫さん:「伸びたよ」加代さん:「伸びた、伸びた」真美さん:「元気やん。よかった」不在の間、屋台を続けてくれる子供たちを、正夫さんも誇らしく感じていた。正夫さん:「(子供が)こうやってやってくれるもんで、本当に素晴らしい家族やなと思いますよ。『だるまファミリー』でやってもらおうと思いますんでね、これからもよろしくお願いしますわ。(大晦日の12月)31日は出ます!間違いなく出ます!」真美さん:「頑張れー!頑張ってやろう!頑張ってやろうね」正夫さん:「『出るな』って言っても出ますから」
毎年恒例の「年越し営業」には必ず戻ってくる。父との約束だ。
加代さん:「今は大晦日を楽しみにしとると思う」真美さん:「大晦日が目標やでな。そのためには本人も頑張らなかんけど、私たちもね、頑張らんとね。負けとれん」 しかし、それから1週間の12月15日…。真美さん:「2か月前に肺ガンってわかって、良くなるかなっていうところで脳梗塞になっちゃって、右半身麻痺。で、そのまままた悪化しちゃって…。今、本当に危ない状況です」

肺ガンに脳梗塞を併発し、医師から子供たちには「年を越せないかもしれない」と告げられていた。真美さん:「本当は(大晦日の)31日は、自分がラーメン作れないけども『イスに座ってでもみんなのところに行きたい』って、ずっと言っていて…。『もっと教えたかった』とは言っていたけどね。こうやってやっとるところを、本当は見てほしかったよね。帰って来てほしいな、帰って来てほしいけど…」
そして、年越しラーメンの当日、午後9時。
真美さんたちは、開店準備に追われていた。真美さん:「バタバタ。時間がやばいね。全然余裕なし」
午後10時30分、営業を始めると、早速客がやってきた。真美さん:「(先頭の子供に)いらっしゃーい!ありがとう。一番だよー」子供:「おっしゃー!」20年以上続いてきた年越し営業とあって、開始30分で長い行列ができた。
女性客:「気持ちも温かくなって。また頑張ろうかなと」
男性客:「最高ですね!」常連の女性客:「(真美さんに)元気そうやな」真美さん:「元気、元気」
常連の女性客:「よかったわ、それなら」真美さん:「今日の準備があるで、お父さんのおかげで気が張っとるかな、今のところね。ちょっと1人になるとシュンてなるけど。まぁ、まぁな、慣れてかな」屋台に父・正夫さんの姿はなかった。常連の男性客:「おっちゃん亡くなったんですね」真美さん:「そうなんですよー」常連の男性客:「今年こそ、最後におっちゃんのラーメン食べて終わらなかんって、食べようと思ってたら…」真美さん:「ありがとねー、頑張っとったんやて。この年末に来る予定やったんやけど、途中でね、脳梗塞になっちゃって、急変しちゃった」

常連の男性客:「それは…」真美さん:「ありがと、でも」正夫さんは12月20日、79歳でこの世を去った。
年越しには必ず戻って来る、その約束は果たせなかった。
元の主を失った屋台には、1枚の色紙が置かれていた。真美さん:「どう最後に感謝を伝えていいのかって気持ちが悶々としとる中で、形に残したいというか」〈父・正夫さんへの感謝状〉「感謝状、親父どの。みんなに愛される親父どのは、私たちの誇りです。愛をいっぱいありがとう。子供より」
父と一緒に屋台に立つことはできなかったが、それでも継いだことに意味はあったと、真美さんはいう。
真美さん:「お父さんの思い出話とかいっぱい聞けたし、お客さんのお父さんへの思いも聞けたので、本当に今日は満足してます」父から子供たちへ託された、だるまらーめん。
真美さん:「お父さんの存在大きいね、やっぱり。何十年も頑張ってきて、1人でよくこれだけ用意をしたんだなとか、とても大変やもんね」真美さん:「すごいと思います。もっともっと教えてほしかった。残念やけど、でも絶対(近くに父は)おるって思ってるし。絶対見とってくれとるよね」
加代さん:「頑張っていこうと思います」
客からの「続けてほしい」という声が多く寄せられたことと、父がずっと守ってきた屋台の灯を消すわけにはいかないというという思いから、真美さんたちきょうだいは、店を続けることを決めた。当面の間は月に1回、毎月第3土曜日の夜に、長良川鉄道の関駅の前で店を開くという。