サンフランシスコ講和条約が発効したのは1952年4月28日、今から72年前のことである。
この条約によって敗戦国日本は独立を回復した。沖縄はどうなったのか。
講和条約第3条によって本土から切り離され、米国が沖縄に対する司法・立法・行政のあらゆる権限を行使することになった。
戦後沖縄の苦難は、まさにここから始まったと言っていい。「4・28」は日本本土と沖縄が戦後、全く異なる道を歩むことになるその始まりの日でもあった。
米国の沖縄統治は、戦前の農村型社会から基地依存型社会へ、社会の在り方を大きく変えた。
高等弁務官は、琉球政府行政主席(今の県知事)の任命権を持ち、立法院(今の県議会)で議決された予算案を拒否することもできた。
住民が本土に渡航する場合、米国民政府(USCAR)発行のパスポート(渡航証明書)が必要だった。
出入域を許可制にすることによって、人民党員や活動家などを思想的にチェックし、渡航を制限したのである。
若い世代は「自分たちは何者なのか」というアイデンティティーを巡る葛藤に悩まされた。詩人の山之口貘は、易しい言葉で、しかし深い悲しみを込めて、沖縄の実情を詩に託している。
〈日本みたいで/そうでもないみたいな/あめりかみたいで/そうでもないみたいな/つかみどころのない島なのだ〉
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何より深刻だったのは、米軍の不法行為によって人権が脅かされる事態が頻繁に生じたことだ。
講和発効に伴って軍用地使用の法的な根拠が必要になり、米国民政府は新たな対策に乗り出す。
52年11月、地主との賃貸借契約を進めるため布令91号「契約権」を公布した。だが、賃料があまりにも低額だったため契約に応じる地主はほとんどいなかった。
53年4月には新規接収を可能とする布令109号「土地収用令」を公布した。こうして県内各地で銃剣とブルドーザーによる強制接収が始まった。
このような強権的な対応が可能だったのはなぜか。人権を保障し、戦争の放棄をうたう日本国憲法は沖縄に適用されていなかった。それが大きな理由である。
米国統治の下で膨大な米軍基地網が形成され、沖縄は「太平洋の要石」と呼ばれるようになった。
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沖縄では戦後27年間、米軍と住民の関係は占領者と被占領者、統治者と被統治者の関係だった。
基地維持・基地建設が優先され、沖縄住民の自己決定権はないがしろにされた。地方自治も米軍の許す範囲の自治しか行使できなかった。
それでも住民は抵抗を諦めなかった。国連憲章や世界人権宣言、各種の国連決議などを根拠に国内外に理不尽さを訴えてきた。
「4・28」はそのような歴史を記憶し後世に継承していく日でもある。