[社説][沖縄戦80年]サイパン戦 突出する住民犠牲なぜ

旧南洋群島の島々は、かつて国際連盟下の委任統治領として日本が統治していた。多くの沖縄県人が製糖業や漁業などの仕事を求め、島々に渡った。
特にサイパンでは昭和期、沖縄からの移民が日本人移民の5~6割を占めた。
そのサイパンが米軍艦載機の激しい空襲に見舞われたのは1944年6月11日のことである。米軍は4日後の6月15日、80年前のきょう、サイパン南西岸のチャランカノアに上陸した。
多数の民間人が、激しい地上戦に巻き込まれたとき、戦場で何が起きるか。その先例となったのが、サイパンでの戦闘である。
44年2月、女性や子ども、老人を日本に帰国させる計画が立てられた。だが輸送船が相次いで米潜水艦に撃沈され、疎開は思うように進まなかった。
日本軍は、上陸する米軍を海岸線で撃退する水際作戦をとったが多勢に無勢。上陸を許す結果となり、後退する日本軍と島に残った民間人が戦場で混在するようになった。
沖縄県人家族は日本兵に銃で脅され、隠れていた洞窟を追い出された。
ある家族が輪になって手りゅう弾の栓を抜き「自決」を図った。
食料も水も底を突き、飢えと渇きのために死んでいった人たちもいる。
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日本にとってサイパン戦は、多数の民間人を巻き込んだ最初の地上戦だった。
日本軍は戦陣訓などを通して、捕虜になることを潔しとしない「玉砕」の思考を内面化していた。
戦場でどのように民間人を保護するか。その具体策を持ち合わせていなかった。
捕虜になったら「男のおもちゃにされる」「耳を切られる」「戦車にひき殺される」。恐怖心をあおるプロパガンダが深く浸透し、民間人の多くが「捕まったら拷問される」と信じ込んでいた。
島の北端マッピ岬に追い詰められた人々は、次々に断崖から身を投じた。
「集団自決(強制集団死)」は沖縄で起きた沖縄戦固有の悲劇だと思いがちだが、実はそうではなかった。
サイパン、グアム、テニアン、フィリピン、そして沖縄、樺太、満州と「際限ないようにくり返され広がった」とノンフィクション作家の下嶋哲朗氏は著書で指摘する(「非業の生者たち」)。
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サイパン戦で亡くなった日本人は約5万5千人で、このうち1万2千人は民間人である。
沖縄県人約6200人が犠牲になった。その数は突出して多い。現地住民のチャモロ人やカロリニアンも日米の戦闘に巻き込まれ、900人以上が亡くなった。
軍は住民を守らない。それを最初に示したのがサイパン戦であった。
サイパンやテニアンなどの島々で起きた「南洋戦」を「忘れられた戦争」にしてはならない。