[社説][沖縄戦80年]サイパン陥落の衝撃 絶望的な戦争なぜ継続

マリアナ諸島のサイパン島は、戦争継続の必要上絶対に死守すべき絶対国防圏と位置付けられていた。
サイパンの日本軍が最後の突撃を行い「全滅」したのは1944年7月7日のことである。
マリアナ沖海戦に大敗し、サイパンに続いてテニアンも失い、絶対国防圏は音を立てて崩れた。
軍令部総長を経験した永野修身は「万事休す」と語ったという。
沖縄戦の作戦指揮に当たった第32軍司令部の八原博通高級参謀は、戦後書き残した著書で、こう指摘する。
「マリアナ線が失陥して、わが南西諸島が代わって主防御線として登場するようになっては、日本も終わりだ」(「沖縄決戦」)。
大本営がサイパン陥落を発表したのは7月18日。この日、東条英機内閣が総辞職した。
米軍はサイパン、テニアン、グアムを占領し、最新鋭のB29大型爆撃機を運用するため飛行場を整備拡張した。
マリアナ諸島に航空基地を確保したことで米軍は、爆弾を搭載したB29による日本本土空襲が可能になった。
日本軍はB29に対抗できるだけの航空戦力や防空体制を持ち合わせていなかった。相次ぐ島しょ戦の敗北で制海権・制空権も失われていた。
日本の敗戦が決定的になったのである。サイパン陥落のこの時点で戦争はやめるべきであった。
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この時点で戦争を終わらせることができれば、沖縄戦の悲劇も広島・長崎の被爆も本土空襲も避けられ、多くの尊い命が救われたはずだ。
東条内閣の後を継いだ小磯国昭内閣はしかし、戦争終結ではなく戦争継続を選択する。「皇土」を防衛し「国体」を護持するために。
サイパン陥落後の戦局を吉田裕・一橋大名誉教授は「絶望的抗戦期」と表現する。
B29による本土爆撃が11月から始まった。日本国内の主要な都市が無差別じゅうたん爆撃にさらされ、焼き尽くされた。
日本軍は、特攻という最も非人間的な作戦に活路を見いだそうとした。航空特攻や小型舟艇による海上特攻、急造爆雷による自爆攻撃。生還の見込みのない体当たり攻撃が繰り返され、多くの若い命が失われた。責任は重大だ。
日本軍の戦争指導方針が惨劇を生む土壌になったのは明らかである。
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サイパンで日本軍が最後の突撃を行った44年7月7日、鹿児島と沖縄の両県知事に緊急閣議の決定が伝えられた。
奄美大島・徳之島・沖縄本島・宮古島・石垣島の五つの島に居住する老人、幼児、婦女子を直ちに引き揚げさせよ-という軍の要請に基づく政府からの指令だった。
サイパン陥落と緊急疎開。いずれも沖縄の命運に関わる情報だった。
疎開すべきか島に残るべきか。誰を残して誰を疎開させるか。究極の選択を迫られ島は揺れに揺れた。