五輪メダリストの発言で注目「鹿児島の特攻資料館」とは? 周辺には遺構がたくさん 映画のモデルにも

パリから帰国した卓球日本代表の早田ひな選手が「行きたい場所」として口にした鹿児島県の特攻資料館。そこは2023年に話題となった映画のモデルとなった地でもあり、特攻隊員の手紙や遺品だけでなく多くの戦争遺構も残されています。
先日まで熱戦が続いたパリ五輪において、卓球女子団体で銀メダル、シングルスで銅メダルに輝いた早田ひな選手(24歳)が、8月13日に行われた帰国時の会見で「大会を終えて行きたい場所」のひとつとして「鹿児島の特攻資料館」を挙げ、大きな反響を呼びました。
早田選手はその発言に続けて「生きていること、そして自分が卓球をこうやってできていることっていうのは、当たり前じゃないというのを感じたいなと思っています」と述べています。ちょうど終戦の日である8月15日の直前というタイミングでもあったことから、SNSなどを通して多くの共感の声も寄せられ、同時にこの「特攻資料館」はどこなのかとも話題になりました。
五輪メダリストの発言で注目「鹿児島の特攻資料館」とは? 周辺…の画像はこちら >>知覧特攻平和会館に展示される、世界で唯一現存する日本陸軍の四式戦闘機「疾風」。ここは一般の撮影は禁止されている(画像:知覧特攻平和会館)。
これは鹿児島県南九州市知覧町にある「知覧特攻平和会館」のことと思われます。九州南端に位置する同地には、太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年12月に福岡県の大刀洗陸軍飛行学校の分校が開設されました。しかし戦況悪化に伴い、1945(昭和20)年3月には陸軍航空隊の特攻基地となります。
そして知覧を始めその他の基地から、主に沖縄方面へ向けて1036名の搭乗員が出撃して還らぬ人となりました。その多くが20歳前後の若者たちで、特に本土最南端の飛行場であった知覧基地からは最も多い439名が出撃しています。
こうした歴史的背景から、当時の遺品や関係資料を後世に向けて保存・継承すると共に、「二度と悲惨な戦争を起こしてはならない」という平和へのメッセージを発信する目的で、1987(昭和62)年に知覧特攻平和会館が建設されて、現在に至っています。
この知覧特攻平和会館には戦死した1036名の特攻隊員の遺影を始め、遺書や辞世・絶筆などや日の丸寄書き旗、飛行帽や飛行服などの遺品、さらには世界で唯一現存する日本陸軍の四式戦闘機「疾風」の実機なども展示されています。
この実物の「疾風」は、1973(昭和48)年に飛行してから現在まで機体は静態保存されていましたが、近年は新たな保存の取り組みとして機体の一部を分解して目視する状態調査が度々行われ、経年による金属の腐食や劣化などの現状確認と共に機体の真正性の確認も進められています。
このような調査に掛かる費用は南九州市の予算から計上されており、さらにこうした活動が実を結んで2020年11月には南九州指定文化財(有形文化財/歴史資料)に指定され、2023年2月には日本航空協会より重要航空遺産に認定されています。
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特攻平和会館の入口に掲げられた、燃える「隼」から特攻隊員の魂を引き上げる天女を描いた陶板壁画「知覧鎮魂の賦」(吉川和篤撮影)。
また南九州市の保存の取り組みは、特攻平和会館に展示される「疾風」や遺書、遺品だけではありません。その周辺に残る戦時中の油脂庫や弾薬庫、給水塔などといった施設、掩体壕や三角兵舎跡地など、さまざまな戦争遺構の保全や管理にも見られます。これら戦争遺構は広く点在していますが、特攻平和会館周辺のものを見学できるように約1.5kmの散策コース(約40~50分)も設定されています。
こうして地元が歴史的な意義を認識して大切に保存する特攻平和会館や戦争遺構は、現在も我々に特攻隊の悲惨な歴史を伝えるとともに平和の大切さを示しています。また昨年には、映画『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』の舞台のモデルとしても、知覧の地が描かれました。もしかしたら、早田選手もこの映画を見たのかもしれません。
知覧は九州の南端に位置するため、なかなか行きにくい場所です。それでも早田選手の発言によって改めて知られるようになったこの地を訪ねることで、歴史や平和について何かを感じることができるでしょう。