[社説]旧盆と沖縄戦 今も尾を引く住民被害

きょうは旧盆のウークイ。16日のウンケーの日にお迎えした祖先の霊をあの世にお送りする日である。
トートーメー(位牌(いはい))のある家には、親族が集まって仏壇に手を合わせる。
トートーメーは、家庭の中で、沖縄戦で亡くなった人々と今を生きる世代をつなぐ役割を果たしてきた。 公的な場だけでなく家の中でも、お盆の伝統行事を通して戦争の記憶が継承されてきたともいえる。
沖縄戦では、県民の4人に1人、概数で「12万人以上」が犠牲になったといわれる。
激烈な地上戦の様相は戦後、繰り返し語られてきた。だが、組織的戦闘がやみ、兵士や住民が捕虜となって収容所に収容された後の、南部の光景が語られることは少ない。
沖縄戦研究に「戦死後」という新たな視座を導入した北村毅さんは言う。「遺骸のほとんどは、少なくとも半年以上放置され(中略)、亡くなったときの姿そのままを晒していた」(「死者たちの戦後誌」)
収容所から帰村した人々が真っ先に手がけたのは、遺骨収集だった。
親兄弟や子どもが本島南部の激戦地で亡くなったと伝え聞いた人々は、遺骨拾いのため現地を訪ねた。
戦死した場所を探すためユタに頼る人も少なくなかったという。
今年の慰霊の日、地域の慰霊祭に出席した90代の女性は「父母と兄2人、弟1人の家族全員を亡くしたが、骨は誰一人戻ってきていない」と語っていた。
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糸満市で生まれ育った写真家の大城弘明さんは、子どもの頃、崩れた石垣に囲まれた空き屋敷をよく見かけた。
屋敷の中にブロックや石を積んだ小さな建物がある。ひっそりと香炉が置かれ、花が手向けられている。トートーメーが置かれているところもある。
祭主のいない粗末な建物。一家全滅の屋敷跡である。
糸満市史によると、同市の一家全滅世帯は440世帯を数える。
大城さんの写真集「鎮魂の地図」は、余分な写真説明を省くことによって想像力をかき立て、深い鎮魂の思いに誘う。
親族や地域の人たちが丁重に供養していることが写真から伝わってくる。
戦争を国家の視座からではなく、一家全滅した住民の視座から見つめ直した作品である。
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太平洋戦争中、サイパンやパラオなどの旧南洋群島やフィリピンで、多くの沖縄県人が戦争被害に遭った。民間人とその遺族らが国に謝罪と損害賠償を求めた南洋戦訴訟は、最高裁で原告の敗訴が確定した。
1947年に国家賠償法が施行される前の行為に関して国は賠償責任を負わないとの理由で。
全国各地で争われた空襲訴訟で被告の国が持ち出し司法が採用したのは「受忍論」だった。戦争被害は民間人にとってただの「死に損」なのか。
戦災市民の救済なしには戦争は終わらない。