……そうそう。私も18歳から国分寺に住んでいたんですよ。一橋大学の国立キャンパスに通っていたから。
共通点ばっかりですね! 倉田さんが住まれてた頃とは、国分寺の景色もずいぶん変わっちゃったと思いますよ。
そうですよねえ。学生時代のころのことを思い出すなあ。「惹凱牡(じゃがいも)」っていう居酒屋があって。
私の“行きつけ”(笑)。そこで「スナックカータン」をやったり。
うっそ!懐かしい!
……そろそろ本題に入らせていただきたく(笑)。
ごめんなさい、カータンさんとの共通点が多くて盛り上がっちゃいました(笑)。さて、改めて本日はよろしくお願いいたします。
(笑)。よろしくお願いします。
カータンさんは、私たちの時代で言う“スッチー”だったんですよね。漫画を書かれるようになったきっかけをあらためて教えてください。
10代のころからエッセイストに憧れていたんです。高校時代からいろいろなメディアに「投稿」をしていました。でも、いいところまでは行くけどグランプリは取れないような状況で。
当時、付き合っていた彼氏と結婚して、趣味で書きながらいつか……なんて考えていたんです。でも振られてしまいました。
こんな素敵な方なのに!
「ああ、どうしよう」なんて思っていたときに、たまたま、ある客室乗務員さんに出会ったんです。
その方に相談したら「CAになったら?」って。「CAが書いてるエッセイだったら読んでみたいと思うんじゃない?」と。
エッセイの肩書きは超・大事!
「『空の上からこんにちは~』とか『アテンションプリーズ!』みたいなエッセイ書けるんじゃない?」なんて言ってくれたんです。すっかりその気になって客室乗務員に。
動機がいいですよね(笑)。
そんな客室乗務員時代は、いかがでした?
楽しかったです。でも、エッセイストの夢を諦めきれなくて客室乗務員をしながら投稿を続けていました。相変わらず、最後の方まで残るけどぎりぎりで落ちる状況は変わらず。そうこうしているうちに客室乗務員になってからも長くなっていって。
当時、同期はみんな先輩にいじめられて「辞めたい病」になっていました。そこで、みんなのストレスが少しでも軽くなるようにと考えて、先輩の悪口をもとにしたエッセイ漫画を月に1回、同期に配り始めたんです。
それ面白いなあ!
個人用のパソコンなんてない時代ですから、休みの日に紙に描いたエッセイ漫画をコピーして、同期30人に配っていました。そうしたら、同期だけじゃなくて同期の彼氏や家族も楽しみにしてくれるようになったんです。
カータンさんの原点を見た(笑)。当時、どういうところが“ウケて”いたんですかね。
何と言っても絵が汚いことかなぁ。描き始めた頃は、“落書き”に近い感じだったと思います。過去のブログを見返しても、「よくこんな絵で公開していたな」って。
カータンさんの絵っていわゆる”ヘタウマ“だと思います。でも、それって誰もができるものじゃないですよね。
そう言えば、知人の漫画家さんやデザイナーさんも言ってました。「下手に描いて成り立たせるのが一番難しい」って(笑)。
カータンさんの場合は、それが味になっていますよね。カータンさんにしか描けない絵。当たり前ですが、私がカータンさんの絵を真似して描いたとしても、やっぱりどこか違う。
その「マネできない部分」に”カータンさんらしさ“が出ていて、親しみだったり、共感が生まれるんでしょうね。
「介護ど真ん中!親のトリセツ」にもお父さまを老人ホームに預けるまでの経緯を書かれていますが、絵のタッチを通じてカータンさんの葛藤が見えるんですよね。
本にも書きましたが、親を施設に預けることに対して、「姥捨て山」の話への葛藤が頭から離れませんでした。
でも、父にせん妄の症状が出たことから、老人ホームに預ける決意をしたんです。症状が出始めたときは、私と姉が泊まりで父をみていました。
幸い意識は戻ったんですが、そのときにケアマネさんに言われたんです。 「また同じような状況になっても、お二人が泊まりでみるんですか?」と。
それを聞いて「たしかにそうだな」と。
それからすぐに入居を決断されたんですか?
かなり迷いました。でも、ケアマネさんが「介護は“見切り発車”ぐらいじゃないと、いざとなってからでは大変だから」って、背中を押してくれたんです。
さすがプロの言葉。
入居希望者が多い特養は、2年待ちなんて“ザラ”だと言われました。親がいよいよ生活できなくなってから申し込むのでは、特養に入るのは無理です。