「どこから撃たれた!?」パリ市民がパニック! 100年前のドイツが造った“驚愕の戦略兵器”とは

今から100年以上前の第一次世界大戦で火砲は劇的な進化を遂げました。なかでも「パリ砲」と呼ばれる超大型砲は、成層圏まで弾を到達させるという記録を達成。パリ市民から恐れられました。
第一次世界大戦では、航空機や戦車など実に様々な新兵器が登場し、それまで歩兵主体だった戦場を変えてしまいました。ただ、この戦争は新兵器の登場だけではありません。既存兵器も劇的に変化を遂げました。その代表が火砲でしょう。
「どこから撃たれた!?」パリ市民がパニック! 100年前のド…の画像はこちら >>パリ砲の全体を映した状態。砲身が異常な長さであることが確認できる(画像:帝国戦争博物館)。
なかでも最先端を行っていた国がドイツです。同国は、第一次世界大戦初期に「ベルタ砲」や「マックス砲」と呼ばれる大型火砲を次々と投入し、敵として対峙したフランス軍を震撼させました。そして、第一次世界大戦の後半、持てる技術のすべてを結集し完成させたのが、カイザーウィルヘルム砲、通称「パリ砲」です。
火砲(大砲)は、第一次世界大戦以前からある大型兵器でしたが、この時代に、火薬や弾、鋳造技術などが進歩したことで、より大型の火砲が生み出されるようになったのです。「小型のものより大型のものの方が威力もスゴイ」というのは事実で、敵の要塞や塹壕を潰すため、火砲はどんどん大型化していきました。
やがて大口径かつ長砲身の砲を用いて、敵が陣取る前線よりも、はるか後方を狙ってはどうかとドイツ軍の火砲を製造していたクルップのフリッツ・ラウゼンバーガー技師が友人で陸軍参謀だったマックス・バウアーに提案し、陸軍参謀本部で承認されます。
パリ砲の総重量は256t、全長は28mにも及ぶ巨砲でした。砲弾は約94kg、発射されると弾道はなんと高度40000mにまで到達し、成層圏を突破したといいます。100年以上前、まだ人工衛星や宇宙船などが開発されていないこの時代、この砲弾は、成層圏に到達した世界初の人工物とも言われています。
この弾道を描いて砲弾は高度40000mまで到達しますが、ここまで高高度だと空気が薄いため、その抵抗も少なく、結果、射程が非常に長くなります。ゆえに、当時の基準ではけた違いの射程130kmを誇りました。
1918年の春、大攻勢を控えたドイツ軍は、同砲をフランスの首都パリから約120km離れた森の中に設置しました。もちろん敵国の首都を直接攻撃するためです。最初の砲撃は遠方すぎるため、飛行船での爆撃と勘違いされたほどで、砲だと判明すると一転してフランス国内をパニックに陥れました。「ドイツは一撃でパリを壊滅させられる大砲を開発した」そんな噂がまことしやかに流れたことで、次第にこの砲は「パリ砲」と呼ばれるようになったのです。
しかし、このパリ砲。思った以上に「難」があり、運用は困難を極めました。まず大きすぎるうえに重すぎたため、運ぶためには鉄道輸送が可能な特別な台車に乗せるしかありませんでした。そして、砲を設置する場所の手前まで敷設されたレールで移動した後、ターンテーブルを備えたコンクリート製の砲台に移され、ようやく射撃体勢をとれるようになります。ただ射撃の準備も大変で、80人ほどの砲兵や工兵、民間のエンジニアなどが関わることで。ようやく射撃できるようになったといいます。
砲身の内部は、施条(ライフリング)があり、これで発射時の弾道安定が図られていました。ただ、砲弾の初速が1600m/秒(音速の約5倍)という、とんでもない高速のため、砲弾によって砲身内部のライフリングはゴリゴリと削られてしまい、一度砲弾を発射すると、2発目はそれよりも少し大きな砲弾でないと砲芯と合わなくなってしまうという信じられない不具合も起こりました。
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パリ砲を正面からみた状態。中央に写った人間のサイズと比較すると、その大きさがわかる(画像:パブリックドメイン)。
そのため、1発発射するごとに、徐々に直径の大きな砲弾が用意され、その発射順番まで細かく決められていたそうです。砲弾の大きさが変われば弾道も変化しますから、射程も着弾位置もまた計算し直さなければなりません。
また砲身も、1発撃つごとにライフリングが削られるため長くは使えませんが、かといって砲身内部のライフリングを切り直したり、砲身を交換したりとなると、とても手間がかかりました。
発射する際にも問題がありました。発射時には非常に大きな音が出るため、敵にすぐその位置を察知されてしまうのです。そのため、パリ砲の周辺には、通常の火砲をたくさん設置し、同時に発射して、雑音でパリ砲の位置を隠そうとしました。また夜間は発射時の閃光で場所がばれてしまうので、射撃は日中に限られたといいます。
このような苦労を乗り越え射撃しても、レーダーや観測装置などが発達していない時代のため、130km先の着弾地点を確認することができませんでした。狙った地点に着弾したのか、どのくらいの損害を与えたのか。全くわからないまま、射撃は続けられ、その効果は翌日以降の新聞や、敵陣営に入り込んだスパイからの報告で確認していたそうです。 このように問題を多く抱えたパリ砲でしたが、第一次世界大戦終盤の1918年3月に、パリから120kmの森に設置されて以降、計300発以上の砲弾が発射され、死傷者は700名以上、また多くの家屋が倒壊するという被害をパリに与えました。
しかしそれ以降、このパリ砲が使用されたという報告は残されていません。終戦間際にドイツ軍の手によって破壊されたものと考えられています。砲座だけはアメリカ軍によって接収されたそうですが、それ以上は何も残されませんでした。
また、大戦の終結に伴い、このような巨大火砲はしばらく造られることはなくなりました。ある意味では、後の戦略兵器のさきがけともいえますが、後の時代に登場する、爆弾を大量投下可能で、着弾観測も容易な大型爆撃機とは比較にもならない使い勝手の悪さでした。
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第二次世界大戦後にアメリカで試射されたV-2ロケットの後継「パンパーWAC」。ドイツ長距離攻撃兵器への野心的設計は、技術の進歩によって世界中で活用されるようになる(画像:NASA)。
しかし、ある意味「ロマン兵器」とも言えるこの長距離射撃兵器への夢を、まだドイツは捨てていませんでした。30年後の第二次世界大戦では、巨大な列車砲「ドーラ」と「グスタフ」を生み出しただけではなく、その後の弾道ミサイルの発達に大きく貢献することになるV-2ロケットを開発することになるのです。
※一部修正しました(9月9日20時17分)。