【プチ鹿島の本音】「オヤジジャーナル」も変わらなきゃ

「オヤジジャーナル」という言葉を独自に使ってきました。きっかけは2012年の自民党総裁選だ。谷垣禎一総裁と石原伸晃幹事長が出馬に意欲を示し、結果として谷垣氏が出馬を断念。総裁を支えるべき幹事長が裏切ったという批判が出て石原氏は「平成の明智光秀」と呼ばれたのだ。
メディアは普通に伝えていたが、世間には全然響いていなかった。この温度差は何だ? 永田町と国民の距離感そのものでは? そう考えた私は「おじさんが発信しておじさんが受信している」と見立て、「オヤジジャーナル」という味わい方を提唱し始めた。子どもの頃から政治記事が好物だった自分は10代の頃からおじさんだったのか、という自己認識もついでにできた。
さて最近また「明智光秀」という言葉をよく見る。自民党の茂木敏充幹事長が「令和の明智光秀」と呼ばれているのだ。岸田総理を支えないで自分が総裁選に出ようと画策していると、ここ1年くらい報道されてきた。茂木氏は否定していたが、総裁選への出馬会見を見ると岸田政権の政策を否定するような「改革」案も唱えていた。それなら幹事長としてなぜ早く進めなかったかと問われていた。
だから明智光秀の名前が躍るのだろう。でもこういうのを見ると平成も令和もそうだが「明智光秀に謝れ」と思ってしまう。小粒だし、報道する側も含めて内々だけで盛り上がってる感がある。
あと、政治家を戦国武将に例え合うというのは圧倒的なおじさん世界の証拠ではなかったか。女性候補がいないのが当たり前という意識が長すぎたのでは。「オヤジジャーナル」は新聞への“偏愛”の証しとして、または“おかしみ”を楽しむ言葉として使ってきたが、変わるところは変わらなきゃ。自戒を込めてそう感じています。(時事芸人)