三浦瑠麗は「国際政治学者」か? 私がこの肩書に違和感を覚えた…の画像はこちら >>
三浦瑠麗の夫が東京地検特捜部に逮捕された。太陽光発電事業に絡み、取引先から預かった4億2千万円を着服していたというのがその容疑だ。
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この事件の後、三浦瑠麗は、テレビ出演もなくなり、評価が下がってきている。私は、同じ「国際政治学者」であるだけに、何か自分まで叱られているような気分になってしまう。
夫婦であっても、夫と妻は別人格であり、夫の共犯者ででもないかぎり、テレビから干されるのは筋が立たない。しかし、夫の事業の広告塔の役割をしていたと見なされるような言動もあったようだ。
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しかし、三浦にとっては不幸なこの事件がなくても、彼女には「国際政治学者」という肩書きでテレビ番組には出てほしくなかった。
私には何故彼女がテレビなどのマスコミでチヤホヤされるのか皆目見当が付かなかった。それは、国際政治に関わるテーマについて、彼女が的確な解説をしているところを見たことがないからである。
女性であるだけに利用価値があるのか、自民党が「国際政治・外交論文コンテスト」で総裁賞を与えたり(2004年)、防衛庁・自衛隊が「安全保障に関する懸賞論文」コンテストで優秀賞を出したり(2006年)、自民党の機関紙的色彩の濃いフジサンケイグループが「正論新風賞」を授与したり(2017年)しているのはよく分かる。しかし、公平であるべきテレビ局までも彼女に肩入れするというのは不可解である。
そもそも一政党が主催するような論文コンテストに、まともな学者なら応募するわけがない。彼女が権力に近づき、権力の庇護を受けようという意識が相当に強かったのであろう。
私は、東大の改革に挑戦したが、守旧派に拒まれて失敗し、1989年に西部邁らとともに、大学を去った。しかし糊口を凌ぐ必要があり、友人たちの助けもあって、新聞、雑誌に寄稿したり、テレビやラジオに出演するようになった。そのときに肩書きをどうするかという問題が出てきた。
西部のように、どこかの大学に再就職し、また教授のような肩書きがつけばよいが、私はキャンパスには戻らなかった。そこで、「評論家」、「ジャーナリスト」という案もあったが、海外留学までして外交文書などと格闘してきた研究者の誇りというものもあり、最低限「学者」のレベルは保ちたいと思った。そして、熟慮の末、「国際政治学者」としたのである。
テレビでは、『朝まで生テレビ』、『TVタックル』など多数の番組に出演したが、その度に「国際政治学者」という肩書きが画面に現れ、それが次第に定着していったのである。
松尾貴史は、先日、毎日新聞(1月29日)のコラムで、「『国際政治学者』という肩書を知ったのは、いつごろのことだろうか。時期は判然としないけれども、人物と肩書がリンクしたのは舛添要一氏だったような気がする。・・・(中略)・・・彼の職業は、といえば国際政治学者だと迷うことなく思う」と記している。松尾も私が元祖「国際政治学者」だと認めているのである。
学者と名乗る以上は、きちんとした学術研究を論文や著書の形式で公表していることが不可欠である。その上で、一般読者向けに解説文などを書き、広く人々を啓蒙しなければならない。
私は、東大を辞めても、研究は続けたし、国際政治に関する本を年に最低1冊は世に問うていた。その結果、「世界のことはマスゾエに聞け」というタイトルの本まで出たのである。イラクのサダム・フセインが湾岸戦争などで暴れたときにはこの独裁者について、ゴルバチョフがソ連邦の大改革を断行したときにはこの改革者について、論文や本を書いた。
三浦瑠麗の代表作はどの本なのか。テレビに出て発言しても、ワイドショーのコメンテーターとして井戸端会議の類いの世間話を繰り返しているだけだ。しかも、奇をてらって、わざと他人と異なる主張を展開して、目立つことばかりを優先させている。これでは、国際政治学者の風上にも置けないのではないか。
私は、研究室に閉じこもって文献ばかりを読んでいるのが理想的な国際政治学者だとは思っていない。現場に足を運ぶことだ。流石に戦火のウクライナに行けとは言わないが、諸外国に足を伸ばして国際政治の現場を取材することも重要である。
その点では、テレビ局と提携して、海外取材を行うのは役に立つ。私は、かつて「舛添要一 アジアを歩く」という番組を持っていたが、返還直後の香港に行ったり、ASEAN諸国に赴いたりしたものである。また、ベルリンの壁が崩壊したときも、その取材に行っている。最近は、テレビ局も、私が若い頃に行ったような海外取材の予算が潤沢でなくなったことと、現地での安全の確保に手間取って、私が敢行したような現地取材はめっきり減っている。
そのような事情があるにしても、三浦瑠麗が国際政治学者が行うべき海外取材している姿を見たことがない。それなのに「国際政治学者」というタイトルを使っているのである。
テレビ番組に出演するほうが、原稿を執筆するよりも、遙かに多くの金が稼げる。しかも、たいした勉強や事前の調査を求められるわけではない。こんな楽な仕組みの中に入ると、容易には抜け出せなくなる。
テレビ番組は、番組を制作するときには、ゲストについて固定したパターンを堅持する。数人のゲストを呼ぶときには、1人は必ず女性、しかも頭がよいと言うのは願ってもないことである。ただ余り頭が良すぎると、視聴者の反感を買う。そこで、ピントはずれなコメントをすることを含めて、三浦瑠麗程度が丁度良いといういうことになったのであろう。この程度の「国際政治学者」を重用するから、日本のテレビ番組の質が劣化したのである。
かつて大宅壮一が喝破したように、「一億総白痴化」の日本、三浦瑠麗はその象徴であり、今の日本社会はポピュリズム、衆愚政治の極みである。
Sirabeeでは、風雲急を告げる国際政治や紛争などのリアルや展望について、元厚生労働大臣・前東京都知事で政治学者の舛添要一(ますぞえよういち)さんが解説する連載コラム【国際政治の表と裏】を毎週公開しています。
今週は、「三浦瑠麗が名乗る国際政治学者」をテーマにお届けしました。