東京・赤羽「三益酒店」の三姉妹 枯れかけた昭和親父の酒店「もう一度、咲かせます!」

東京都北区。JR赤羽駅から徒歩20分ほどの団地の中にある、いわゆる“シャッター商店街”。その一角に、その店はあった。今回の物語の舞台、1948年創業の「三益酒店」だ。
70年以上の歴史を誇る老舗酒店を現在、切り盛りしているのは、2016年に三代目社長に就いた長女・東海林美保さん(38)と、次女・由美さん(36)、そして三女・美香さん(28)の三姉妹だ。 先代で三姉妹の父・孝生さん(74)も、業界では知る人ぞ知る名物経営者だった。2003年の酒販免許の完全自由化で、スーパーやコンビニで格安の酒が売られるようになって、小売りの酒店は軒並み経営不振に。商いを諦め廃業に追いやられる同業者を横目に、孝生さんは思い切って地酒専門店にかじを切った。当時、都内では簡単に入手できなかった「八海山」など銘酒と呼ばれる地酒をいち早く扱うことで、生き残りに成功したのだ。
「でも、家では傍若無人で」と苦笑いを浮かべる長女・美保さん。次女・由美さんも「本当だよね」と言葉を継いだ。
「お客さんの前で『ここはお前の家じゃない!』って言われたこともある。お客さんに話した私のお酒の説明が気に入らなかったみたい。当時、私は20代前半と若かったから。もう、父の言葉がショックすぎて寝込みましたよ」
少し年の離れた三女・美香さんは、こう振り返った。
「そのころ、私はまだ中学生かな。お姉たち、父によく泣かされてましたね。『大変だな』って思いながら見ていましたけど」

三姉妹はいかにして父の存在を乗り越え、新しいタイプの人気酒店を作り上げてきたのだろうか。
■父からは「ここは俺の店だ、勝手なことするな!」「出ていけ!」と怒鳴られっぱなし
「お父さんと2人じゃ、もう無理。お姉ちゃん、帰ってきて」
15年ほど前。美保さんのもとには、連日、由美さんが泣きながら発する“SOS”が届いていた。
都内の四年制大学を出た後、大阪の商社に入社した美保さん。いっぽう、2歳下の由美さんは、姉と同じタイミングで料理の専門学校を卒業。すでに家業を手伝っていた。美保さんが言う。
「そのころ、ずっと父を支えてきた母が病気で倒れてしまって。父は鉄砲玉のような人で、契約を取り付けるために地方に出向くと、何日間も行きっぱなし。一つの酒蔵だけじゃ飽き足らず、次、また次と行っちゃうから。だから入院した母の代わりに、まだ20歳そこそこの妹が、店のことほとんどすべてをやっていたと思います」
美保さんは入社した会社でキャリアアップを目指そうとしていた。そのいっぽうで、幼いときから両親が苦労を重ねて働く姿を間近で見ながら「お酒は日本の大切な伝統文化」という思いも強かった。
「父母の代で店を畳んでしまうのはもったいないという気持ちもありました。だから、いつかは自分が戻ることになるんだろうな、と思ってはいたんですが。そのいつかが思いの外、早く来てしまって」
入社から2年足らずで、美保さんは家に戻ることになった。
「でも、一度外の社会を経験して戻ってみると、家業のあらばかりが目につくようになったんです」

彼女が先に述べたとおり、当時の三益酒店はかなり年季の入った、傷みの目立つ店舗で営業していた。
「雨漏りがひどかった。それに壁にもボコボコ穴が。でも、当時のうちには先立つものが、店の修繕費がありませんでした。それに何より『そんなお金があったら、買い付けに使う』というのが、父の考えだったんです」
父・孝生さんの信条は「ぼろはまとえど心は錦」そのものだ。
「たとえ店がオンボロでも、そこにいい酒さえあればお客は必ず来る。逆に店がいくらきれいでも、お客が求める酒が棚になければ、店は潰れてしまうんだ」
左党の記者には、先代の言葉はよく理解できた。それを、そのまま伝えると「ものには限度があります」と三代目はピシャリ。
「だって、雨漏りでお客様の服がぬれたり、せっかく仕入れたお酒のラベルが汚れてしまったりしていたんですよ」
由美さんが「雨漏りだけじゃなかったよね」と口を挟んだ。
「当時、店には看板もなかったんです。それで、お姉ちゃんと相談して、昔から付き合いのあった飲食店さんに業者さんを紹介してもらって。父のいない日を見計らって見積もりを取りに来てもらった。ところが、そんなときに限って父が店に。あっという間に怒りだして、『ここは俺の店だ、勝手なことするな!』って怒鳴り散らして」
最後には、お決まりの「出ていけ!」という父の怒声が、店の外にまで響き渡っていた。
いつしか由美さんと並んで美保さんも、店の倉庫で涙をこぼすように。

それでも「泣いてばかりではダメ」と、姉妹は互いを奮い立たせ、毎日接客に励んだ。しかし……。美保さんが恨めしそうにこぼす。
「当時20代だった私たちより、お客さんのほうがお酒についてはベテランで。そういうお客さんはやっぱり、父が探してきたお酒を、父の手から買いたいんですよ」
よく父から言われていたのが「自分の居場所は自分で見つけろ」という言葉。美保さんは言う。
「父の土俵でお酒を売るのが難しいのなら、自分たちの居場所を作るしかない。お酒を1本1本、売るのは難しくても、もしかしたら、1杯ずつなら売れるかもしれない、そう考えたんです」
’09年、美保さんと由美さんはつてを頼り、営業時間外のカフェを間借りする形で、JR赤羽駅前に曜日限定の日本酒バーを開いた。これが、転機だった。
■父に頭を下げた美保さん。母の口添えもあって三代目社長に就任
「酒屋の仕事と並行してやっていたので。ママチャリの前後のカゴにお酒を山と積んで、バーに通いました。自作のチラシをポスティングしたり飛び込み営業も。もう、がむしゃらでした」(美保さん)
「調理師学校を出た私がおつまみ作って。そしてブログに『今度はこういうお酒、出しますよ』とか、『このお酒には、こんなおつまみ合いますよ』と。ペアリングのことや、お酒のうんちくなどの情報発信もしました」(由美さん)
地道な努力は、やがて実を結び始める。美保さんが振り返る。
「だんだん『あの三益の娘たちが頑張ってる』と、地酒好きな人たちにも浸透してきて。日本酒バーは、どんどん忙しくなりました」

バーの客に酒をすすめるために、そして、情報を発信していくためにも姉妹は地酒の試飲を重ね、そのおいしさにも目覚めた。さらに、販売の接客にも役立てたいと「酒師」の資格も取得した。やがて父の信奉者一色だった三益酒店にも、徐々に自分たちのファンが増えはじめ、姉妹は少しずつ自信を深めていった。「それでも」と顔を曇らせ、長女は述懐した。
「悪気はないとは思うんですが……そのころになっても、私たちは一部のお客さんから『お手伝い、えらいね』と言われてしまうことがあって。それは本当にいやでしたね。私も由美も覚悟を決めて働いていたのに、子どもが親の手伝いをしているだけって思われてしまっているのかって」
悔し涙をこらえ「お手伝いと言われないためにはどうすれば?」を必死に考えた。導き出した答えが「三代目になること」だった。
「父にも頭を下げました。『お父さんがまだ元気なうちに、そして私もまだ若く新しい挑戦ができるうちに、事業承継してほしい』って。それでも、なかなか父は首を縦に振ってはくれませんでした」
酒販業界で生き残っていく厳しさを、身をもって知る孝生さんは、簡単にイエスとは言いにくかったのか。そのときのことを母・博子さん(62)は、こう振り返った。
「美保、泣きながら私に言うんです。『社長になりたいんだ』って。ちょうどそのころ、取引先の酒蔵さんでも、代替わりするところがいくつかあって。20代後半でお酒造りを始めた人もいた。当時、美保は32歳。決して若すぎるということはないと思いましたし、熱意を持って本当に頑張っていたから。私、主人の機嫌のよさそうなときを狙って言ったんです。『そろそろ認めてあげてもいいんじゃない? 美保に(社長の)名前を変えてあげたら?』って。そうしたら主人、『いいよ』って言ってくれたんですよ」

母の口添えのもと、三姉妹の長女・美保さんは、三益酒店の三代目社長に就任した。2016年11月のことだった。
■料理とお酒のペアリングも蔵元の人を呼んでのイベントも、父がやりたいと思っていたこと
世代交代を果たした三益酒店は「ワクワクを創出する酒店」という新たなコンセプトを打ち立てた。
「うちは駅から徒歩20分と、決して立地に恵まれているとは言えません。それでも来てくれるお客さんというのは、三益酒店のファンであり、地酒のファンの人たち。だから、お客さん同士が、もっと交流が持てる場を作れたら、皆さんもっとワクワクしてくれるんじゃないか、そう考えました」
そう話す美保さんは以前、ある酒蔵で言われた「三益さんにはカラーがない」という言葉がずっと引っかかっていた。蔵元が酒に込めた思いをしっかり客に伝え、酒を飲んだ客の感想を、ちゃんと蔵元にフィードバックしたかった。
姉妹が目をつけたのが、店に併設された飲食スペースだった。東日本大震災で店の棚が倒れ、被害を受けた際、思い切って父が作った角打ちだ。その後、あまり有効活用されず、父の私物が詰め込まれた物置と化していた。
角打ち復活の計画を伝えると、父は「客筋が悪かったらどうするんだ?」と反対した。それでも、美保さんたちは強行突破。自分たちで少しずつ内部を片付け、’17年、営業再開にこぎつけた。リスタートを切った角打ち、その名は「三益の隣」。由美さんが言う。
「日本酒4種類、飲み比べセットで1千円ならお手ごろなんじゃないかな、みたいな。そんな形で地酒ファンの人たちが来てくれるか、最初はお試し営業でした」

それでも、姉妹には日本酒バーの成功体験がある。そのときと同じように、SNSでまめに情報発信を続けながら、定期的に酒蔵の人を呼んでイベントも開いた。気づけば「三益の隣」は「酒屋をやりながら自分たちだけで回すのは難しくなるほど」(由美さん)の人気に。美保さんは言う。
「蔵元、酒店、それに地酒ファンが一堂に会する場を設けられたことで、『次は何する?』『こんなイベントやりましょうよ』と、次々に新しいアイデアも生まれて、楽しいイベントが増えていきました」
ホテルに就職。ブライダルの料理の仕込みなどを担当していた三女の美香さんも6年前には三益酒店の一員に。慎重派の長女、行動派の次女、そしてきちょうめんな三女。三姉妹それぞれが個性を発揮し、輝く三益酒店。3人は「厳しい父との衝突も、いま振り返れば私たちに必要な修業だったと思う」と口をそろえる。そのうえで美保さんは「いまも、私たちは父の思いを形にしているにすぎないんです」と話す。由美さんが姉の言葉を補足する。
「料理とお酒のペアリングも、酒師の資格を取ることも、蔵元の人を呼んでイベントを開くことも、じつはいま、私たちが実践してきたことの多くは、もとをただせば、父のアイデア、父がやりたいと常々、言っていたことなんです」
妹の言葉をうなずきながら聞いていた姉が、さらにこう続けた。
「父は私たちに向かって直接、褒めることは一切しません。それどころか最近も、しょっちゅうぶつかるんですけど。それって、もしかしたら、自分がやりたかったことを形にしている私たちのことが、羨ましくてしかたないのかな、なんて思ったりもします」
でも、孝生さんは三姉妹を認めていないわけでもなさそうだ。美保さんは最近、父と2人して九州の酒蔵に出張した。
「そのとき、父が私たち三姉妹のことを、蔵元の人に向かって褒めるんですよ、もう、その場が気まずくなるぐらい褒めまくる(笑)」
姉の言葉を、今度はまた由美さんが受け継いだ。
「そう、だって最近は、父がいちばんワクワクしてます。よく聞かれますよ、『次は何やんの?』って(笑)」
【後編】オンライン角打ちなど斬新なアイデアで、令和の時代を乗り切る「三益酒店」の三姉妹へ続く