中越地震から20年。復興に向けたそれぞれの選択の先に待っていた被災地の今について、シリーズでお伝えしています。今回は新潟県小千谷市塩谷集落。地域を離れた人がいつで寄れるようにとつくられた施設は節目の年に転機を迎えました。
小千谷市中心部から10kmほどの山あいに位置する塩谷集落。【関芳之さん】「唖然とした。もう復旧はできないかと思った。最初はね」今も集落に住む関芳之さん。20年前の地震で多くの家屋が倒壊し、児童3人の命が失われた集落では慰霊碑が建立され、鎮魂の祈りが捧げられています。そんな集落には、ほかにも地震をきっかけにつくられた施設があります。【関芳之さん】「村を離れた人も、田んぼや畑がある人はいつでも寄れる。そういう場所をつくったらどうかと。“芒種”というのは、種を植えるということ。新しい仲間も増やしていく、そういう希望もあった」中越地震の前には、約50世帯が暮らしていた塩谷集落。大きな被害を受けた住民は、生活再建に向け集落に残るのか、移転するのか、話し合いを重ねた結果、一つの意見にまとめることはしませんでした。結果として、約半数の世帯が塩谷を離れました。そうした中、地震発生から2年後に集落内の古民家を改装し、完成したのが『芒種庵』です。
「やむを得ず集落を離れた人がいつでも気軽に戻り、残った人と交流できる場所をつくりたい」そんな思いからできた芒種庵ですが、豊かな自然に惹きつけられるよう、集落外の人や県外からのボランティアも多く集まるように。【関芳之さん】「限界集落になってきているから、若い人に入ってもらって、塩谷を終わらせたくないという思いがある」芒種庵では、毎年コメ作りも行い、田植えや稲刈りにはボランティアをきっかけに集落と関わりを持った県外の学生なども参加してきました。五味希さんもその一人。1年間、大学を休学して集落に住み込むほど、その魅力に惹きつけられました。【五味希さん】「東京とは違う。例えばクルミを拾ってきたりとか、春は山菜をとってきて食べたりとか、生活の中にすぐ山とのつながりがあるのは、すごく素敵なことだなと思う」
そして、地震から20年となる今年も…芒種庵の田んぼで作ったコメは収穫の時期を迎え、あいにくの雨の中、稲刈りが行われました。例年通り、五味さんの姿も。【五味希さん】「やはり村の人に会えると私たちも元気をもらえるし、塩谷の空気がすごく落ち着くなというのはある」【関芳之さん】「やっぱり来るとうれしい。腕前は大したことないけどさ」この日、五味さんから集落の人にうれしい報告もありました。【五味希さん】「結月という。今は4カ月。初めての長旅」芒種庵の活動を通し、集落の住民から娘のようにかわいがられてきた五味さん。住民にとっては孫とも言える新たな命です。【関芳之さん】「声をかけるとニコッとする。(集落に赤ちゃんは)いない。もう20年もいない」
約20年にわたり歴史を刻んできた芒種庵。しかし、そこに集まる人の数は年々減っているのが実情です。こうした中…【芒種庵を管理する会 星野賢治 会長】「今年が最後の稲刈りになるかもしれないが、ありがとうございました」住民などでつくる芒種庵を管理する会は、地震の発生から20年を迎える中、芒種庵を解体することを決めたのです。【芒種庵を管理する会 星野賢治 会長】「壊すというのはちょっと名残惜しいが、いずれは壊さなきゃいけない。自分たちが元気なうちに。いずれみんな動けなくなる」集落の高齢化が進み、施設の運営や維持が難しくなっていることが理由です。「またね、じゃあね~、大きくなってこい」再び集まることを約束し、集落の大切なイベントは幕を下ろしました。
【関芳之さん】「この写真もみんな片付けなきゃだな」20年前、区長として集落の今後について話し合いを主導した関さん。【関芳之さん】「会議は毎日のようにやっていた。みんな迷った」ふるさとに戻るのか、離れるのか、まとまって行動するほかの地域の状況も耳に入ってきましたが、最終的に意見を一つにまとめることはせず、自らは集落に残る道を選びました。今、当時の選択を振り返り思うことは…【関芳之さん】「みんなバラバラになれば、なかなか…。まぁ、これは自然の成り行き。これからのことを考えると不安もある。でも、みんな真剣に生きていることだけは確か。悔いはない」月日が過ぎ地域を取り巻く環境が変わる中でも、それぞれ悩み抜き、選んだ道を住民は歩んでいます。