妊娠・出産・育児を経験し、後輩女性のためのロールモデルに。自衛隊を除隊してフリーランスに転向してからは、医師不足に苦しむ僻地へ向かい、患者とする毎日を送る。
■防衛医大では自衛隊の訓練として演習場でほふく前進うあ射撃訓練も
渡辺由紀子さんは、時計部品工場で働く父・峰次さんと、専業主婦だったり、パート勤務やお総菜屋さんをやっていたこともある母の朋子さんが居を構える埼玉県新座市で育った。
「父とはウマが合い、休日には車でいろんなところに連れていってくれたものだから、お父さんっ子でした。でも、昭和の封建的な父で『女は勉強しなくていい。そんな時間があれば、お母さんの手伝いをしなさい』という考えでした」
だが、由紀子さんは勉強好き。小学校のテストは100点ばかりだったが、父に見られると怒られてしまうため、隠していた。ついには友人の影響で進学塾の入塾テストを受けたことをきっかけに、中学受験を希望したのだった。
「母が父を説得してくれたんだと思います。私は負けず嫌いで、勉強で1番をとりたかったんですね」
その言葉どおり、日本有数の進学校である桜蔭中学に合格を果たした。語学が好きな由紀子さんが高2のころに抱いた夢が、外交官。その矢先のことだった。
「父はもともと血圧が高いのに朝風呂に入る人で……。バタンと倒れたとき、母が気付いたようです」
脳内出血だった。不安な気持ちで救急車を待っているとき、父は薄れゆく意識の中で「お母さんと弟をよろしく頼むぞ」と由紀子さんに言い伝えた。
大学病院に搬送され、一命は取り留めたものの、後遺症が残り社会復帰は困難だと伝えられた。
お父さんっ子の由紀子さんは学校が終われば父の病室を見舞い、1時間ほどベッドサイドで勉強をしてから帰宅。
学校では父のことが心配で涙があふれてしまうことも。ふさぎ込む由紀子さんを見た担任の教師が、スクールカウンセラーとの面談をセッティングしてくれた。
「何を話したのか覚えていませんが、知らない人だからこそ言えるような気持ちを吐き出すことができて、本当の意味で泣けたんでしょうね。すごく気持ちが楽になったんです」
担任は奨学金の手配もしてくれて学費の不安は解消されたが、母は生活費捻出のため、若いころに働いていた会社でパート勤務を始めた。その会社からの下請けで、1通30~40銭の宛名書きの内職を由紀子さんも手伝った。「お母さんのことを頼んだぞ」という父の言いつけどおりに。
「うちの学校は月曜日の午後は自学するために授業がないんです。誰もいない教室で宛名書きをしようとしたら、受験勉強がいちばん忙しい時期なのに、クラスの友達が机を並べて手伝ってくれたんですね」
そのやさしさに報いるためにも、将来の進路を本気で考えた。
父は自宅療養していたが、定期的な通院、検査、また入退院を繰り返しており、そのたびに医師の説明を聞くのは由紀子さんだった。
「主治医が丁寧に説明をしてくださるんですが、なかなかスムーズに話を進められませんでした。そこで初めて“医学を勉強したい”という気持ちが芽生えたんです。医学に詳しくなれば、より父に寄り添えると。医師になろうとまでは思わなかったんですが、医学を学びたいと思うようになったんです」
外交官になるために目指していた東京大学文科一類に学費免除で合格したが、学生でも国家公務員という立場で給料が支給される防衛医大を選んだ。
「防衛医大は寮生活で、朝はラッパの音で起床。すぐに建物の外に出て点呼を取らなければならないのですが、慌ててシーツをピシッとそろえないと、外に投げ捨てられてしまいます。登校も制服姿で隊列を組んで行進です」
長期休みも、他大学と比べて3分の1ほど。残りは自衛官としての訓練だ。地方の演習場でほふく前進したり、小銃の射撃訓練をしたり、野営したりと、医学生と自衛官の2人分の訓練が必要だった。
「しかも寮生活でプライバシーはありませんでした。でも、見回りがあってもお風呂の脱衣所は女子しか入れないので、夜は3人しかいない同期の女子で愚痴を言って、励まし合いました」
医学の道へ進むきっかけとなった父の容体は、悪化していった。転院を繰り返し、防衛医大のリハビリ科に入院したこともあった。
「事情を知る教授に『あなたがお父さんを介護しなさい』と、入院期間は病室で寝泊まりさせてもらいました。父が生きているだけで支えになっていたので、一緒に過ごした時間は貴重でした」
だが、医学科6年生に進級したばかりのとき、実家近くの病院に転院した父の容体が急変した。
「意識を失って終わりが見えてきました。最後、蘇生を試みるかで悩みました。母に答えさせるのは酷だと思い、私が蘇生を断ったのですが、それでよかったのか……。
このとき患者家族の悩みやつらい決断を経験したからこそ“患者の気持ちに寄り添う”という、私の医師としての原点があるのだと思います」
由紀子さんは医師としての一歩を踏み出した。
■「自衛隊の枠にとらわれず幅広い仕事をしては」と夫が背中を押してくれた
父を送り、6年の大学生活を終えると、2年間の研修医期間が始まった。最初の1年6カ月は各科をローテーションでまわり、最後の半年は希望の診療科に所属。
「医学科6年のときに各診療科の勧誘を受けました。外科は生理的に電気メスで組織を焼くにおいが無理だし、父のことがあって総合臨床医を目指していたので、いちばん患者が多く、内視鏡の技術も磨ける消化器内科に進んだんです」
研修医生活を終えると、群馬県の駐屯地に配属された。長野オリンピックでは、設営作業をする自衛隊員の診療と健康管理をする救護所を運営するため派遣された。
防衛医大卒業後8年目で、大学院に進学することに。その直前、幹部上級課程の研修などで知り合った歯科医官の佑治さんとの交際が始まった。
「夫とは、隊員の身体検査や、年に1回の会議などで出会っていたそうですが、私は知らなかったんです。でも、女子がほとんどいない環境だったので、夫は私を見て印象に残っていたみたい。若いころは、痩せていてかわいかったんですよ(笑)」
由紀子さんが勤務する埼玉県朝霞市、佑治さんが勤務する静岡県御殿場市とで“中距離恋愛”を開始し、わずか数カ月でプロポーズされた。
「夫は2歳上でそろそろ結婚したいという思いがあったみたいです。私も35歳の高齢出産になる前に子供を産みたいと思っていたから、32歳のときに結婚しました」
防衛医大大学院では、妊娠・出産する学生は初めてのケース。なかにはよく思わない教授もいたが、担当教授は「日本のために、産みなさい」と応援してくれたという。
「長女には出産前から先天性の病気があることが判明していたんです。病気のことはショックでしたが、何があっても産むつもりだったので、無我夢中でした」
出産後、朝は大学の官舎から車で10分のところにある保育ママに預けて、学校に戻る。完全母乳で育てたかったので、学校で搾った母乳を昼休みに自転車に乗って届けた。そして夕方に迎えに行ったあと、近所に住む母に子供を託し、研究の続きをするために、再び学校へ引き返した。
「長女が保育園に預けられるようになってからも、大変でした。免疫力が低いために、感染症にかかってしまうんです。しかも普通の風邪でも、肺炎になって、2~3週間入院したり……。母や義母、夫と私の大人4人がヘトヘトになりながら、交代で1人の赤ちゃんにつきっきりでした。子育ても中途半端、研究もうまくいかないと悩んでいた時期に『人間を一人育てるという、ありえないくらい大事なことをやっているんだから、自分を責めるな』という同僚の言葉に勇気づけられました」
長女が4歳を迎えて入院回数が減ったころに、次女が誕生。
「次女は健康に生まれたから“こんなに手がかからないのか”と思うほどでした」
とはいうものの、育児と仕事の両立で心身ともに疲れ切ってしまい、“一度、ゆっくりしたい”と、2017年2月に自衛隊を除隊したのだった。
かなりの収入減になってしまうが、背中を押してくれたのは、先に除隊していた佑治さんだ。
「もともと自衛隊の枠にとらわれない自由な人。もっと幅広い仕事をするほうが合っているんじゃないかと思いました」(佑治さん)
由紀子さんは友人が立ち上げた医師紹介会社に登録しつつ、ツテをたどって週に2~3回、首都圏近郊の病院や企業健診のアルバイトに行きはじめた。
「近場の市町村に行って、午前中だけ働いたらゆっくりランチをして温浴施設で温まって帰ってくる生活で、心身の疲れが癒され元気になっていきました。そして、自衛隊時代は仕事に疲れていたけど、医師の仕事自体は大好きなんだと再認識したんです」
■オンライン診療より対面での診察にこだわる。そして今日も僻地に向かう
埼玉県内の地域医療を担う中核病院。午前中の受付はすでに終わり、診察室前は閑散としているが、いちばん奥にある内科診察室の待合室には、まだ1~2人の患者が座っている。由紀子さんが姿を現したのは、約束の時間を20分ほど過ぎてから。
「診察受付時間ギリギリに電話をかけてきた患者さんがいたので……。時間制限はありますが、私はなるべく患者さんの話を聞いてあげたいので長くなるんです」
相変わらず多忙の由紀子さんは、美容院に行く暇がなく「発作的にざくざく髪を切ってしまいザンバラな髪形になってしまった」と笑うが、その表情には疲労も残る。
「長距離移動は年齢的に厳しくなり、こんな生活がいつまで続けられるかわかりません。それでも時間があれば空港でマッサージを受けたり、地元のおいしいものを楽しんだり、友達に配るお土産を買ったり、地方で稼いだお金を地方で使う“地産地消”の医療生活にはやりがいがあります」
僻地の医師不足に対応するため、厚労省はオンライン診療を推進したい考えもあるが、このように由紀子さんは地方に足を運ぶ。
「オンライン診療は便利で推進すべき医療ですが、対面での診察にこだわりがあります。医師は患者さんがドアを開けて座るまでの様子を見ているし、モニター画面越しではわからない顔色、におい、聴診器から心音、触診など、五感を駆使して診る必要があるからです」
そう語ると病院を出て自転車をこぎだす。今度は30分ほどの場所にある産業医の仕事場に移動。
「明日は都内のクリニックでの診療後に、北海道の病院に向かう予定です!」
患者と真摯に向き合うために、これからも空を飛び続ける。
(文・取材:小野建史)