第50回伊波普猷賞に決まった大倉忠夫氏・福田晃氏 研究の足跡や思い 受賞者や弟子に聞く

沖縄の文化や学術振興に関する優れた研究や著作に贈られる第50回伊波普猷賞(主催・沖縄タイムス社)は、大倉忠夫氏の「奄美・喜界島の沖縄戦-沖縄特攻作戦と米軍捕虜斬首事件」(高文研)と、福田晃氏(2022年1月死去)の「日本と『琉球』-南島説話の展望」に決定した。受賞者やその弟子に研究の足跡や思いなどを聞いた。
贈呈式は2月9日、那覇市久茂地のタイムスホールで。入場無料。問い合わせは沖縄タイムス社読者局文化事業本部、電話098(860)3588。
奄美・喜界島の沖縄戦 -沖縄特攻作戦と米軍捕虜斬首事件 記憶と膨大な史料基に 大倉忠夫氏 幼少期を過ごした喜界島での戦時中の体験を後世に残そうと、本書を執筆したという。「研究というよりは、記憶をたどる旅」だったと表現し、だから受賞は「喜びもあるが、驚きが大きい」とする。歴史に忠実でありたいと記憶だけに頼らず、集めた膨大な史料を丹念に読み解き、事実を積み上げた。
両親の故郷である喜界島で過ごしたのは1939年からの10年間。8歳から17歳だった。東京生まれの著者にとって、まばゆい日差しに白い砂浜、アダンといった強い色彩が喜界島の原風景という。そんな美しく、のどかな島は、不時着飛行場があったために特攻基地となり、米軍の標的となった。砲弾にさらされ、家々は一つ残らず焼け落ち、集落は消滅した。
「島民は戦争に巻き込まれるとつゆほども思わず、日本軍に言われた通り、不時着飛行場の拡充工事を手伝った」と指摘。不時着飛行場ができた31年から本書が始まるのは、悲惨な戦争へすでに突き進んでいたとの思いがあるから。台湾有事を念頭にした南西諸島の軍備増強に対し、「今の時代にも重なる」と警鐘を鳴らす。

ポツダム宣言について連合国と日本の交渉が続いていた8月11日、喜界島に潜伏していた特攻隊に出撃命令が下される。資料によって出撃日が異なることに着目した。太平洋戦争の基本文献とされる防衛研究所発行の戦史叢書(そうしょ)は11日とするが、喜界島住民が書いた書籍や日誌には13日とある。
被害を受けた米艦を探し出し、米国公文書館に情報公開請求して手に入れた戦闘日誌から13日と特定できた。「支配者視点だけでは事実を見誤る。現場を見た人たちの声もきちんと取り入れるべきだ」と説く。
また、終戦間際の特攻は「戦術的にも戦略的にもまったくの無意味だった」と断言。命令を出した宇垣纒(まとめ)司令官の日誌も丁寧に読み込んだからこそ、たどりついた答えだ。「国民の生命を大事にする視点が欠落している」と批判する。
45年の戦時中は13歳。強烈な印象として残っているのは、梅雨の晴れ間に友人たちと散策して訪れた丘で、偶然見かけた米兵捕虜だ。近くにいた日本兵に見つかり、自身はその場から離れたが、米兵はその直後に斬首刑にされたという。
島の大人たちも知らないようで、うわさにもならなかった。「故郷から遠く離れた島でひっそりと殺された若者を思うと、せめて名前くらいは知っておくべきだと思った」。情報公開請求で米国公文書館から取り寄せたBC級裁判の記録で、氏名と階級を知ることができた。
60歳を過ぎた頃から資料を集め始め、弁護士を引退した70歳で調査を本格化。「調べてみると、当時は知らなかった事実が次々と明らかになり、面白かった」と振り返る。90歳で書籍化を決意。膨大な資料をまとめ上げた。

「小さな島での戦争体験だが、書籍として残すことができた。何らかの教訓になってほしい」と話した。
大倉忠夫氏の略歴 おおくら・ただお 1931年、東京生まれ。39年に喜界島に移住。52年に大島高校を卒業し、留学生として上京。54年に東京学芸大中退後、郵政省入省。64年退職。66年に司法試験合格し、69年から弁護士。全駐留軍労働組合横須賀支部顧問、横浜弁護士会常議員会議長などを歴任した。90年代から喜界島の戦争史を調査している。共著に「日照、眺望、騒音の法律紛争」がある。
【講評】我部政明・国際政治学者 沖縄での航空戦闘に注目 本書の最大の貢献は、地上戦闘に注目するこれまでの沖縄戦研究に欠落していた航空戦闘を軸とした沖縄周辺海域と奄美諸島での戦争を含めたことにある。
本書の特徴は、大きく分けて四つの文書記録に依拠した叙述にある。
まず、喜界島にて家族と共に暮らしていた国民学校高等科2年生だった著者の体験である。次に、喜界島配備の日本軍の戦闘日誌、海軍の航空作戦を指揮した宇垣纏(まとめ)中将の陣中日誌である。そして、喜界島に暮らしていた民間人(在郷軍人と教員)の手による戦災日誌である。さらに、米軍の戦闘記録を入手して、それを日本側の記録と照合しながら、喜界島での戦争を叙述する。加えて、極東軍事裁判にて捕虜・住民虐待により起訴されたBC級戦犯を裁く49法廷(米英中豪など7カ国が主宰)のうち、日本では唯一だった横浜法廷の記録に基づき、喜界島で日本軍に拘束され斬首された米搭乗員殺害の二つの事件を取り上げている。

沖縄侵攻作戦として準備された米第10軍の計画では、三つの段階が想定されていた。第1段階は、慶良間諸島、沖縄本島、伊江島への侵攻。第2段階は、防空レーダー設置のために鳥島、伊平屋島、伊是名島、粟国島、久米島への侵攻。第3段階は、作戦範囲の南に位置する宮古島と北に位置する喜界島(代替としての徳之島)への侵攻であった。
本書によれば、喜界島では米軍上陸に備えて日本軍の守備態勢が敷かれ、住民は山中への避難を命じられたという。喜界島への米軍の侵攻は、7月に米第2海兵師団が上陸・占領し、九州から沖縄へ向け攻撃する日本の航空機を捕捉するレーダー基地の設置と迎撃する戦闘機(夜間戦闘を含む)部隊の配備を予定していた。
沖縄島での地上戦は、1945年の4月と5月、日米の激しい戦闘での消耗が続いた。そのため新たな作戦に必要な兵力を用意できないとの判断から、米第10軍は4月26日に第3段階の宮古島侵攻を断念した。そして、5月6日に喜界島侵攻部隊の第2海兵師団に作戦着手命令を出したものの、5月14日に着手解除を命じた。6月3日に上陸作戦の無期延期を決定した。ここで、喜界島への上陸作戦は消えた。
浦添から首里・那覇・与那原にかけての日本軍の激しい抵抗がなければ、米第10軍の喜界島侵攻が行われていただろう。日本の第32軍が首里を放棄した5月末以降、沖縄島南部では多数の民間人の犠牲が出た。
激しい日米の戦場となるのかによって、日本軍の敗走と民間人の多大な犠牲が生まれる。沖縄島と喜界島の二つの島は戦争がもたらす悲劇の負の相関関係にあった。

日本と『琉球』-南島説話の展望 沖縄の民間説話体系化 福田晃氏[寄稿]真下厚(ましもあつし)(元立命館大学教授)
福田晃氏の死去に伴い、同氏の立命館大学における初期の教え子で、多くの調査、特に奄美・沖縄の調査のほとんどに同行してきた真下厚氏(元立命館大学教授)に寄稿してもらった。
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福田晃氏は中世日本の説話や軍記物語を主に研究してきた。この時代、人間が苦難の末に神に生まれ変わるという物語や悲劇的な合戦の物語が数多く生み出された。こうした文芸は、どのように生まれたのか。これらは、巫女(みこ)や陰陽師など宗教者集団によって生み出された伝承を母胎として成立した、と福田氏は論じた。その際、こうした宗教者集団と関わる馬の文化や鉄文化などとの関わりにも着目して、詳細かつ具体的に解明してきた。
福田氏が沖縄の古老から初めて昔話を聞いたのは本土復帰の翌年、1973年8月のこと。福田氏が各地で実施してきた昔話調査は市町村単位の悉皆(しっかい)調査を主とするものだった。しかし、沖縄では佐喜真興英「南島説話」(郷土研究社、1922年)という昔話研究史上初期の優れた著作はあるものの、73年当時はきめ細かな調査が行われていなかった。その前年、前々年には奄美徳之島の調査を行い、それ以来45年余、奄美・沖縄地域の民間説話(口伝えの説話)の調査・研究を進めた。
77年には調査・研究を共同して発展させるため奄美沖縄民間文芸研究会を設立、これは後に奄美沖縄民間文芸学会となって現在に至っている。

福田氏は調査を進める中で、沖縄の昔話が伝説や世間話と明確に分離していないことを知る。日本の昔話は室町時代の京都で発端・結末の定型句を伴った口語りの文芸として成立した。だが沖縄では、行事などの由来話として伝説化して語られることが多い。伝播(でんぱ)してきた説話はその地域の自然・社会・文化の中で変容する。そこで福田氏は奄美・沖縄の神話・伝説・昔話・世間話という民間説話全体の体系的研究を目指した。
福田氏は昔話の集団調査とは別に、集落の神女や民間の巫女を個別に訪ね、その祭儀も見学した。この知見をもとに奄美・沖縄の民間説話の中心に祭儀の中の神話伝承があり、伝説に近いという昔話のありようもこうした神々への信仰と響き合っていると考えた。巫女が神のことばを生み出すことを具体的に知ったのも福田氏にとって重要であった。国文学者折口信夫(しのぶ)の日本文学発生説を深化させ、福田氏の文芸理論構築の中核となった。
奄美・沖縄の民間説話をどう位置づけ、体系化するのか。その答えが遺著「日本と『琉球』-南島説話の展望」であった。
以上、氏の研究を身近で見てきた者として功績を振り返ってきたが、研究においては大変厳しい半面、普段は穏やかでユーモアも持ち合わせた福田氏との思い出は尽きない。研究会・学会などの後は必ず酒宴となった。研究に関する話題に熱弁を振るい、時には古里の民謡「会津磐梯山」を歌った姿がしのばれる。受賞の報を届けられなかったのは残念でならない。

福田晃氏の略歴 ふくだ・あきら 1932年、福島県会津若松市生まれ。59年國學院大學文学科卒業、65年同大学院博士課程単位取得、85年博士号取得、73~97年立命館大学教授、97年同大名誉教授。文学博士。国文学者・民俗学者。専門は説話文学。主な著書に「神語りの誕生-折口学の深化をめざす」「南島説話の研究-日本昔話の原風景」など。2022年1月9日死去。
【講評】波照間永吉・名桜大大学院特任教授 島々の個性と豊かさ示す 福田晃氏は、1971年から「南島における昔話を中心とする口承説話の採訪を志」し、50年間、奄美から八重山まで四つの諸島の口承説話の採集と研究に従事し、南島説話と日本説話との関わりを考察するとともに、南島説話が独自の世界を持ち、かつ、多岐に亘(わた)るものであることを示してきた。福田氏は、南島の口承説話研究の前線で、調査と研究の両面において指導的な役割を果たしてきた人である。「日本と『琉球』-南島説話の展望」は、これまで十指を優に越す南島説話集、および、研究書を出してこられた氏が、その研究を総括する形でまとめられた本である。
福田氏は盟友とも言うべき山下欣一氏の研究に触発されながら、巫女(みこ)の呪詞に焦点を据え、90年代以降、島々を訪ね歩いた。その成果の一つが本書の「第一部 伝承の始原」である。折口信夫の文学発生論・仮説を南島説話の世界で実証し、止揚を目指す(例えば氏には「神語りの誕生-折口学の深化をめざす」〈2009年〉がある)。「第二部 鉄人伝承の展開」も日本の中世以来の文献と南島の説話に示された「鉄人伝承」の重なりを示し、彼我の伝承の交流を知らしめ、説話学の醍醐味(だいごみ)を覚えさせる。そのような本書の中で「第三部 伝承の展望」は南島説話研究を総括し、新たな展望を示していて大切である。福田氏ほど南島説話を広く観察し、深く追求した人はいない。氏の提示する「南島説話大成」の構想は、氏において初めてなしうるものであった、と言えよう。

資料の「大系」的整理の必要性は、研究の整理という枠にとどまらない。全体を見渡し、細部を検討するために必要な仕事である。氏は自らの50年におよぶ調査・研究活動の集大成としてこれを構想した。もちろん、提示された案は「私案・試案」であり、後続の研究者による検討が必要だろう。近い将来、同学の人々の手によって、著者の目指した「南島説話大成」が編さんされることを期待したい。
氏の50年にわたる奄美・沖縄の説話の調査と研究によって、私たちは、この地域の説話がどれほど個性的で、豊かであるかを知ることができた。また、本書で示された「南島説話大成」の構想によって、その鳥瞰(ちょうかん)図を得ることができるようになった。琉球・沖縄の説話研究に注いだ福田氏の情熱と成果は、道程標となって後進を導くものといえよう。

大倉忠夫氏

奄美・喜界島の沖縄戦 -沖縄特攻作戦と米軍捕虜斬首事件

福田晃氏

日本と『琉球』-南島説話の展望