駆逐艦「島風」が高速を追求したワケ 竣工は1943.5.10、遅すぎたか…?

旧日本海軍の駆逐艦「島風」が1943年の今日、竣工しました。「島風」は“俊足”で知られますが、これは先代の「島風」が40.7ノットで航行したことにちなみ、速さを追求したから。2代目には、水雷戦隊としての戦闘が期待されました。
1943(昭和18)年の5月10日は、旧日本海軍の駆逐艦「島風」(2代)が竣工した日です。「島風」は“俊足だった”ことでも知られます。 「2代」というのは、1920(大正9)年11月竣工の初代「島風」が存在したため。公試で最高速力40.7ノット(約75.4km/h)を記録した峯風型駆逐艦の4番艦です。速力向上に重きを置いた2代目の名称は、初代にちなんだわけです。
駆逐艦「島風」が高速を追求したワケ 竣工は1943.5.10…の画像はこちら >>1943年5月、京都府北部の宮津湾外を全力で公試航行中の駆逐艦「島風」(2代目)(画像:アメリカ海軍)。
旧日本海軍が速力を重視したのは、戦艦同士の戦いである「艦隊決戦」に勝利することで、アメリカ艦隊を撃滅するという構想を立てていたから。その中身は、軽巡洋艦や駆逐艦で編制された「水雷戦隊」が先制の魚雷攻撃を仕掛け、敵の戦艦戦力が削られたところで主力部隊が砲撃を加えるというものでした。
そこでカギになるのが、敵戦艦に先回りして有利な位置に付くための俊足です。旧日本海軍は魚雷の威力向上と同時に、駆逐艦の性能を高めることを目指したのでした。
竣工直後の全力公試で、「島風」は速力40.37ノット(約74.8km/h)を記録。さらに、燃料などを軽くした過負荷全力公試では、先代の記録を上回る40.9ノット(約75.7km/h)をたたき出しました。

攻撃の要である魚雷兵装は、61cm5連装発射管を3基15門搭載。そのほか主砲は高角砲兼用の12.7cm連装砲を3基6門、対空兵装は25mm連装機銃2基、13mm連装機銃1基などでした。まさに水雷戦隊にふさわしいスペックです。
「島風」の初陣は、アリューシャン列島のキスカ島撤退作戦でした。時は1943年7月、徐々に戦局が悪化へと向かっていたころです。霧にまぎれながらの作戦でしたが、速さを活かし陸海軍将兵5000人以上を撤退させています。
その後は南方へ転進しますが、物資輸送や護衛任務に従事するのみで、水雷戦隊として戦う機会は訪れません。制海権もアメリカ軍に掌握されていき、海中(潜水艦)から、もしくは空(空母艦載機)からの攻撃により、戦隊を組む僚艦が撃沈されていきました。
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1944年10月、レイテ沖海戦(シブヤン海海戦)で沈没寸前の戦艦「武蔵」。「島風」はその乗員を救助している(画像:アメリカ海軍)。
1944(昭和19)年10月、日本はフィリピンのレイテ島をめぐる戦いでアメリカと激突します。旧海軍は空母機動部隊が事実上壊滅、また世界最大の戦艦「武蔵」も失うなど大敗北を喫しました。
「島風」も参戦しましたが、水雷戦隊として本領発揮はできず、戦艦部隊の護衛などが主任務でした。24日には沈没した「武蔵」の乗員を救助しています。翌月、「島風」は物資輸送のためレイテ島へ向かいました。

11日、ほかの駆逐艦とともに航行する「島風」に、300機を超えるアメリカ軍機が襲来。激しい空襲を受けますが、“武器”である俊足を活かし回避行動をとります。しかし至近弾などにより機関故障を起こし航行不能となり、ついに爆沈してしまいました。場所はレイテ島北部のオルモック湾でした。
竣工から1年6か月。旧海軍が当初想定した戦闘は最後まで行われませんでした。「島風」が誕生したころには、すでに海戦のあり方そのものが変化していたといえるでしょう。同型艦は当初16隻が建造される計画でしたが、結局 建造されたのは「島風」1隻に留まっています。