「ようこそ、香川へ。おむすび屋の香菜さん!」
ゴールデンウイーク目前の4月28日(金)正午前。香川県多度津町のアスパラガス農家「おおもりや」の作業場前に菅本香菜さん(32)が到着すると、出迎えたおおもりや代表の大森翔太さん(31)から元気な掛け声がかかり、周囲からも拍手が湧き起こった。
香菜さんは、「旅するおむすび屋」として、日本中をまわりながら、おむすびを通じて各地の人々と交流すると同時に、その土地の食文化などを発信している。立ち上げから6年の間に日本中を訪れ、インスタグラムのフォロワー数も5千人強という、今注目の“食の旅人”だ。
今日のワークショップには、農業従事者やサラリーマンなど10人ほどが参加して、多度津町特産のアスパラを使ったおむすびを握る。早速、エプロンを着けキッチンに入った香菜さんは、いつも一緒に旅をしているという“マイ土鍋”を取り出し、
「今日はアスパラやベーコンにも負けない、しっかりした粒感で粘りもある『新之助』という新潟産のお米などを持参しました」
それから米を冷水に浸している間に、「アスパラ王子」の異名を持つ大森さんの案内でアスパラ畑を見学。収穫も、生で食べるのも初めてという香菜さんは、
「甘~い。この、採れたての旬のアスパラを、おむすびにするのが楽しみです」
キッチンに戻ると、いよいよおむすび作りが始まる。やがて土鍋のごはんも炊き上がり、そこへ輪切りのアスパラと炒めたベーコンが投入されると、食欲をそそる香ばしさが部屋中に漂い始めた。
「そういえばオレ、いつもコンビニおにぎり食べてるけど、自分でおむすびを握るの初めてだ。先生、ぜんぜん三角になりません(笑)」
そんな男性の参加者には、きれいに三角形に握るコツなどを伝授していくのだった。
「こうやって両手で……でも、その四角い感じがかわいいですよ!」
熊本県の芦北町から7時間もかけて車で参加したという「釜ファーム」代表の釜博信さん(40)は、
「菅本さんとは、3年前の熊本水害のとき、復興のクラウドファンディングを通じて知り合いました。見たとおりの透明感ある人柄ですが、食に対するインプットもアウトプットもすごいので、彼女に声をかけられると、迷わず『参加します』と返事してますね(笑)」
大森さんも、できたての“アスパラむすび”をばりながら、
「自分の育てたアスパラが、こんな個性的なおむすびになって感激。香菜さんは、こうした機会を通じて、各地の人や食材を結びつけながら旅してるんですね」
その言葉のとおり、この日も共に参加していた大森さんの兄弟を通じて、熊本の釜さんに淡路島の農家を紹介するという話が、とんとん拍子に決まっていた。その後ものりや調味料の話題に花が咲くなか、ふと大森さんが、
「やっぱり、おむすびを手にすると、香菜さんのオーラがすごい」
すると、当の香菜さん、
「それ、オーラじゃなく、ごはんの湯気です!」
絶妙の切り返しに、また笑い声が弾けた。
人との出会いを、食の場を心から楽しんでいる香菜さんだが、実は拒食症で死とも向き合った6年間を体験している。食べることが怖かったという10代のころから、食べる喜びを伝える現在の活動に至るまでを聞いた。
■孤独感に苛まれ拒食症になった彼女を救ったのは一人の友達だった
「食べることは生きること、そして喜び。人々や食材との出会いが楽しすぎて、どこまでが仕事かわからないほど(笑)」
’91年3月14日、北九州市で生まれ育った菅本香菜さん。父親はサラリーマン、母親は元保育士で、4人きょうだいの長女だった。読書好きで、勉強も自らやるタイプだったというが、小学校に上がるころから、人間関係に思い悩むようになる。
そして、中2のときだった。
「香菜。ちょっと、足、太くなったんやないか?」
身近な知人の発した何げない言葉に、ひどく傷ついた。
「今なら笑い飛ばすでしょうが、13歳の私には衝撃だったんです。それまで私は痩せ形ではありましたが、『スタイルいいね』と言われるタイプでしたから、太ってしまったのなら、また痩せないと、自分はまわりから認められることがなくなるんじゃないかという強い危機感に襲われて」
思春期の入口にいた彼女がすがったのが、ダイエットだった。
「当時、中学生が読む雑誌にもダイエットの記事が載っていて、私が試したのが“午後5時以降は食べものを口にしない”というもの。それで、ほかの家族が帰宅する夕方5時前に一人でごはんを食べるようになるんです。やがてエスカレートして、食べること自体が怖くなって、母に作ってもらったお弁当も友達にあげたり。でも、そのうち、私がどんどん痩せていくから友達もちょっと引いて、もらってくれなくなって。持ち帰ったお弁当を『ごめんなさい』と泣きながら、犬にあげたりしてました」
しばらくしたとき、数字に固執している自分に気づく。
「毎日、朝昼晩と体重計に乗るようになっていました。根本には、自分に自信が持てないということがあったと思います。体重計の数字だけは裏切らないと生きる拠り所になっていて、早朝4時にガリガリの体で団地の中をただ走りまわっていたり。食べても、食べなくても、どちらも罪悪感があって。このころがいちばん苦しかったなあ」
両親と訪れたフードパークでのこと。食事はせずに、ドリンクバーでノンカロリーのお茶ばかり飲んでいる娘に、父親が声をかけた。
「ちゃんと食べんと死んでしまうよ。何か食べようや」
男親なりの、心配をストレートに口にした言葉だったろう。それに対して、母親が言う。
「香菜は、食べたくても、食べられんのよ」
途端に険悪なムードになってしまったのだった。
「仲よし夫婦の2人が、言い争っている。いい家族のはずだったのに、私のせいでケンカさせるのは申し訳なくて、生まれてきてごめんなさい、と思ったり。そのうち、158cmで45kgほどあった体重が23kgですから、半分になってしまって」
体にも症状が出始めていた。膝が曲げられなかったり、いつも極度に冷えを感じていたり。
「人間の防衛本能でしょうか、寒がっているうちに背中に毛が生えてきました。中高と、生理も止まっていました」
病院を訪ねたのは、見かねた保健室の看護教師の助言だった。
「骨と皮状態で近所の小児科へ行くと、すぐに心療内科を紹介されます。診察すると脈も心臓も弱っていて、さらにCTを撮ると脳も萎縮しているのがわかり、先生は『これはいつ死んでもおかしくない状態です』と。下った診断は拒食症で、即入院となりました」
まず彼女の生命を守るため、いわゆる行動制限療法が始まった。
「寝る、食べる、トイレは許されますが、電話もテレビも読書も一切ダメ。それで体重が0.5kg増えたら、『電話を10分だけいいですよ』という生活でした」
4カ月間の入院で体重も30kgまで増え、退院して学校へも戻った。やがて高校受験を迎える。
「入院中も許される範囲で勉強は続けていましたから、高校は、その時点の成績で入れて、自由な校風で知られる小倉南高校を受験して合格できました」
環境が変わることへの期待も大きかったという。しかし、体重は少し回復しても、完治ではなかったため、拒食症がぶり返して再び20kg台となり、休学へ。そして1年後に復学し、2度目の高2を送り始めたときのこと。
「ある一人の女の子と出会うんです。彼女はクラスの人気者でもあって。そんなコが、最初から、もう普通に接してくれたんです。これまでは誰もが腫れ物にさわるように声をかけてきたりだったのが、彼女は一緒に過ごしていたお弁当の時間も、私が食べていなくても気にしないで自分は食べている。摂食障害の女の子ではなく“菅本香菜”という存在を認めてくれた。あっ、私はこのままでいいのかなと初めて思えたんです」
大きな転機であり、また初めて体験する女子高生らしい生活。
「そのうち、彼女と一緒にいる時間をもっと増やしたい。そのためには、私も食べたほうがいいかなと素直に思えて、ヘルシーなものから食べるようになったんです」
共に食事の場を囲んでいいんだとの思いが、やがて私はここにいていいんだ、生きていていいんだという安心感につながっていった。
「卒業後に進みたい道も見えてきました。私が、病気を通じて関心を持ったのが心理学でした。というのも、食べられないけれども、食べることにものすごく執着があったんです。管理栄養士のことを調べたり、カロリーなどについてもかなり詳しくなっていました。それは、実に興味深い人間の心の奥深さだと感じてました」
香菜さんが選んだのは、熊本大学の総合人間学科。幾多の学問のなかから自分の進みたい道を選択できるという、拒食症を通じ多くのことに興味を持つようになった彼女にはぴったりの進路だった。
■就職して農家などの生産者を取材し、「命に支えられている」と気づく
大学生となり、初めて親元を離れての生活も始まった。
「新歓コンパでジュースを飲んでいる自分に驚いたり(笑)。友達も次々にできたりで、拒食症は入学後には完治していたと思います。でも、まだ自分が拒食症だったという、いわゆるカミングアウトはできていませんでした」
そんなとき、東日本大震災が起き、さらにその10日後、今度は母親がクモ膜下出血で倒れて危篤に陥る。幸い発見が早く、その後回復したというが。
「この2つの出来事があって、改めて生と死について考えました。少し前まで、私自身も拒食症で死と直面していたわけです」
そして、思った。
「私は今まで、命に対して誠実だったろうか。もっときちんと向き合い、自分のやりたいこと、できることをやらなければ、この命に対して申し訳ない」
同じころ、「香菜は、拒食症だったからこそできることがあるのでは」という友人の言葉にも背中を押された。
「その後は、積極的に東北の被災地支援にも行きましたし、自分たちで団体を作ってトークイベントや100人規模のキャンプを企画したりで、それまでの低迷期(笑)がウソのようで」
学業でも最終的に民俗学を専攻し、いずれ民俗学的視点で食を研究したいと考えるようになっていた。そんな慌ただしい日々を送るなかで、自分の過去についても自然に話せていたという。
「卒業後は食に関わる仕事をしたいと思っていましたが、明確に絞り込むことができなくて」
そんな彼女が選んだ就職先が、横浜の不動産会社の営業職というのは、少し意外な気もするが。
「まず、自分に足りない伝える力をつけようと思いました。マンション営業では、駅前のチラシ配りから飛込み営業までやって、新人賞も取ったんですよ(笑)。生きてるだけで大丈夫なんだ、と吹っ切れたんです。ただ、やっぱり、どうせやるなら好きなことを仕事にしたいと考えていたとき、熊本の知人から『一緒に事業をやらないか』と誘われました」
熊本へ戻った彼女が始めたのが情報誌『食べる通信』の熊本版の発行で、その創刊メンバーとして副編集長も務めた。
「熊本県内の農業や漁業の生産者さんのもとへ取材に行くようになり、その出会いのなかで、土地そのものが命なんだ、自分はその命に支えられて生きているんだということに気づくんです。私は、孤独じゃないんだ、と」
しかし、熊本に戻って半年ほどしたときに熊本地震になり、取材などが立ち行かなくなる。
「そこへ声をかけていただいたのが、クラウドファンディングの運営会社の代表の方。今度は全国の生産者さんと出会えるとわかって、ぜひやりたいと思いました」
’17年春、東京に本社のあるCAMPFIREに転職し、ローカルフード担当として、まさに日本中を駆けまわる日々が始まった。
全国を巡るうちに、冒頭のように「おむすび」を軸に全国の食文化を知り、広め、ワークショップを開いて人々の縁を結ぶ活動を思い付いた香菜さん。食の大切さを伝える旅は続いていく。
【後編】全国47都道府県制覇の「旅するおむすび屋」同じ釜の飯を握るワークショップ通し人の縁をむすぶへ続く