太平洋戦争序盤、マレー半島に侵攻した日本軍はそこでイギリス軍とたたかいました。日本軍は自動車化部隊の機動力を活かしますが、数が足りず自転車で補うことになります。
1941年の12月8日に旧日本海軍がハワイの真珠湾を攻撃し、アメリカとの戦争に突入したことはよく知られています。しかし、この戦いの前、既に旧日本陸軍は、イギリスの植民地であったマレー半島へ上陸し、戦闘状態となっていました。
「チャリできた」戦場へ 旧日本軍の電撃戦を支えた「銀輪部隊」…の画像はこちら >>進軍する「銀輪部隊」画像はフィリピンでの戦闘時(パブリックドメイン)。
このマレー半島での戦いは、日本軍のあまりの侵攻速度の速さに同時代に欧州を席巻したドイツの「電撃戦」を意識し、マレー電撃戦などとも呼ばれます。このとき日本軍の機動力を支えたのは、戦車や装甲車でしたが、ほかに重要な戦力がありました。当時のメディアから「銀輪部隊」と喧伝された、自転車に乗りながら行軍する日本陸軍部隊でした。
電撃戦の本家であるドイツもそうですが、車両移動できる戦力というのは防衛線を突破する役目を持った一部の部隊のみで、ほかの戦力は歩兵で、多くの場合徒歩での移動でした。当時の日本に関してはドイツよりもさらに自動車化された戦力は少ないという状況でした。そこで目をつけたのが、自転車でした。
当時、アメリカ、ソ連、イギリス、ドイツなどより工業力の落ちる日本でも、自転車に関しては安価で品種がいいものを世界に輸出していました。そして開戦当初、日本軍は約5万台の自転車を保有しており、その自転車の一部をトラックに乗りきれない将兵に与え、南下の速度を上げられるよう計画しました。
緊急的な措置ではありましたが、当時、日本製の自転車は世界中で輸出されていたこともあり、車両や部品の調達は楽でした。現地で徴用した自転車を各部隊で転用すればよかったからです。12月8日にコタバルに上陸した日本軍は、その自転車の機動力を活かし、素早い進軍を行うことになります。
当時の自転車部隊の進撃を称えた軍歌「走れ日の丸銀輪部隊」には、勇ましく銀輪部隊が進軍していく様が歌われていますが、自転車部隊自体は歩兵であり、火力はそれほど期待できないため補助的な部隊とされます。主力は九七式中戦車や九五式軽戦車などの戦車部隊や野砲やりゅう弾砲を運ぶ砲兵トラクターなどでした。
しかし、マレー半島での戦いでイギリス軍は日本軍の自動車化部隊の進撃を遅らせるようにと、多数の橋を破壊しました。その際、戦車やトラックで渡れないものの、自転車を歩兵が担いで渡れる川の場合、自転車部隊だけで無理やり前進するケースもあったようです。
そうした前進時には、タイヤがパンクした影響で、やむを得ずホイールのみで走っている自転車の音が、戦車の履帯(キャタピラ)の音のように聞こえて、敵部隊が戦車来襲と勘違いして撤退したこともあったと、当時の戦記で紹介されています。
とはいえ、このようなケースはまれで、自転車部隊がマレーの電撃戦を支えたというわけではなく、あくまでも補助勢力で、本当の成功理由は自動車化部隊と工兵部隊の連携の高さにありました。この作戦における日本工兵部隊の橋の修復の速さはかなりのもので、中には時間短縮のため、工兵自身が丸太を支え橋脚の一部になることで、戦車などを渡河させたこともあります。
なお、自転車部隊を大量投入したために、当時は放置自転車も問題になっていました。マレー半島は道路網が整備されていたとはいえ、敵勢力の側面などを突くために密林や悪路を行軍しなければならない場合もありました。その場合、兵士は自転車には乗れないため、数百台の自転車が放置されることになります。この解決策として日本軍は現地で臨時スタッフを雇用し、その人たちに運転してもらい、前線部隊に再び自転車を届けたそうです。
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マレー半島を進撃する自動車化部隊。こちらが同戦場での主力(パブリックドメイン)。
そうした様々な戦場での工夫の数々が功を奏し、作戦開始から2か月後1942年2月8日には早くも、マレー半島の先端に位置するシンガポールへ到達。そこでの攻防戦も1週間後の2月15日には決着がつき、長期戦を予想していたイギリスに衝撃を与えることとなります。
ちなみに、今でも戦場では大規模ではないものの自転車が使われることもあり、2022年2月から始まったロシアによるウクライナ侵攻では、ウクライナ兵が対戦車ミサイルを搭載した電動自転車を使用しロシア戦車を撃破したという報道もあります。