結婚した。
はじめは皿洗いなどの手伝いをしていたが、従業員の相次ぐ急病をきっかけに30歳で自らも厨房に立ち始めた。お客の厳しい苦情に悩みながらも徐々に納得のいくおにぎりを作れるようになったという右近さん。しかし、行く手にはさらなる困難が待ち受けていた。
■夫の心筋梗塞、借金返済、極度の睡眠不足。満身創痍の状況に一本の注文電話が――
お客の様子を見ることができるようになったと同時に、具材の味付け、ご飯の量などさまざまな改善をしていった。
「私が独自に考えたのは、にんにくやアンチョビを使ったペペロンチーノおにぎりとカレーおにぎりくらいで、残りの具材は全てお客さんのアイデアや声を反映したものです」
テレビで店が紹介されると、さらにお客も増え、従業員を抱えるように。順風満帆な経営が続いたが、祐さんは70歳をすぎたころから肺炎や膵臓の病気で入院を繰り返し、77歳のときには自宅で脳梗塞を発症してしまった。
「主人は異変に気づき、自分で救急車を呼んだようですが、部屋の鍵が開けられず、1階に住む親戚に助けてもらったそうです。
親戚が店にいる私に連絡して状況を教えてくれましたが、それまでも何度か救急車を呼んだこともあったので、深刻に受け止められず、夕方に仕事がひと段落した時に病院に向かいました」
祐さんは一命をとりとめたものの、医師からはまひなど後遺症の可能性を告げられるほど症状は重かった。
「私には店もあるし、施設に入れるしかないと思ったのですが、医師からは認知症の危険性があるからと反対されて……。
それで自宅の1階に住む親戚に主人の介護をお願いして、私はお店や夫、従業員、親戚家族のためにとにかく働いてお金を作ることにすべてをささげたんです」
当時、店には仕入れ先などから借金が1千万円ほどあり、未払いの年金や税金が400、500万円ほどあった。しかも祐さんは一般病棟を嫌がり、1日2万円の特別個室から出たがらない。生命保険も解約して、手元にあるお金を全部使い果たしたが後悔はなかった。
「結婚して、ぼんごで働いて得たお金は、もともと私のものじゃありません。主人のために使うことに何のためらいもありませんでした。新潟から出てきたときの無一文同然に戻るだけですから」
それまで以上に働いた。朝4時に起きて、自転車に乗って6時にはぼんごで仕込みを始め、休む間もなく開店。
従業員に「いつ寝るんですか」と聞かれると、「移動中の自転車のサドルの上で」と答えた。
「極度の寝不足で、店の奥の3畳間に長靴を履いたまま、2時間ほど気絶するように倒れて寝ることも。従業員も慣れたもので、そんな私をまたいで作業していました」
それでも日曜日には、車椅子を押して散歩するなど、入退院を繰り返している祐さんの世話をした。祐さんは右近さんを頼り、毎日お店に『ママいる?』と電話をかけてきて甘えたという。
だが右近さんの鬼気迫る姿は、時に周囲から誤解されることもあった。
「親戚の一人に『由美ちゃんって、お金を稼げばいいと思っている人なんだね』と言われて。
おにぎりなんて100万円分売っても、純利益は20~30万円ほど。それでも主人や、介護してくれている親戚のために働かなければならないと懸命だっただけ……。それがお金のためと言われたのがさすがに悲しくて、思わず泣いてしまったこともありました」
ぼんごの厨房に立つと、ストレートネックのために耐えられないほどの激痛に見舞われた。
指が曲がったまま戻らなくなったときも、手術をすると水仕事ができなくなるので、麻酔をかけて強引に曲がった指を伸ばしてまっすぐにした。
「毎日痛みが辛くて……。その時は“生きていてもいいことない……、バチあたりだけど、死んだほうがいいのかな”と思うほど精神的に沈んでいました」
満身創痍だった右近さん。そんな時、店にこんな注文の電話がかかってきた。
「お忙しいところ面倒おかけしますが、おにぎりを3つ4つ握っていただけないでしょうか。末期がんでもう何も食べられない夫が、ぼんごのおにぎりを食べたいって言っているんです」
このときのやりとりを右近さんは一生忘れることはないだろうという。
「人生最後になるかもしれない食事に、ぼんごのおにぎりを選んでくれるなんて……。“私は、このときのためにおにぎりを握っていたんだ”って思えたんです」
そんな電話があったから、右近さんは次々と訪れた“別れ”にも耐えられたのだろうか。
’11年6月に新潟の父、’12年2月に新潟の母、そして右近さんが還暦を迎える直前の6月に祐さんが、立て続けに亡くなった。
「主人の最期は、はあはあと息が苦しそうでしたが、亡くなると顔がすうっと白くなって、穏やかな表情に……。私からは感謝の気持ちしかなく『おつかれさまでした』と心の中で呟きました」
家出したときに新潟からおにぎりを持って上京してくれた母、店で仕事をしていると“こんなところにも、クソジジイの教えが生きている”とたびたび思うほど躾に厳しかった父、そしてぼんごを任せてくれた祐さん、厳しくも温かく応援してくれたお客さん。そのすべてがおにぎりのようにぎゅっと一つに握られ、右近さんの人生があるのだ。
■「握る人の気持ちや生き方が、そのまま詰まっているのがおにぎりなんです」
おにぎりに人生をかけてきた右近さんだが、2年ほど前、駅前の再開発の話もあり、70歳を機に引退することも考えたという。
そんなとき豊島区の取り組みの一環で、“町からなくしてはならないもの”をリスト化したとき、ぼんごの名が挙がったのだ。
「私を育ててくれた町や、お客さんへの恩返しをしたいという思いで、長年勤める従業員に『あなたの人生をあと10年だけください』と土下座して頼みました。そうして、お店を近くに移転する決意をしたんです」
店舗が移転しても、おにぎりを素手で丁寧に握ることは変わっていない。それはお客さんとの信頼関係があってはじめて成り立つ。
「東京五輪のときなど保健所がやってきて、ビニール手袋をして握るよう促されたんですね。でもそれではおにぎりの本質的な部分を十分に伝えられない。
うちのおにぎりを食べて、故郷の母を思い出して涙を流される方もいます。握る人が食べる人と信頼関係を結べなければ、それはぼんごのおにぎりとは言えません。感謝や応援……、握る人の気持ちや生き方が、そのまま詰まっているのがおにぎりなんです」
ぼんごのおにぎりは、特別な味付けをしているわけではない。それでも次々にお客が来るのは、味以上のぬくもりを求めにやってくるからなのだ。
「それに、おにぎりは10本の指や手のひら、くぼみをすべて使って、握ります。手袋をしたら繊細な動きができないんです」
右近さんはふと自らの両手を広げてじっと見つめる。
「人差し指の第一関節がぽっこりふくらんでいて、私の手は不格好なんですよ。私よりも手がきれいな人ばかりで、コンプレックスがあった時期もあります。でもいまではそんな不格好な手も“誰よりもおにぎりを握ってきた勲章”だと感じています」
新店舗には、祐さんが作った看板、まな板、カウンターなどもそのまま移設した。
「私には子供がいないので、店の終わり方をどうするかはいまだに悩むところです。でも、ぼんごから巣立った弟子たちが新たに店舗を構えたり、ドイツやタンザニアでおにぎり屋をオープンする挑戦したりしています。一番大事にしているぼんごの“心”が、こうして受け継がれていくことほどうれしいことはありません。
私自身も、超えられるかはわかりませんが、これからも母の作ったおにぎりを目指し続けたいです」
寿司がSUSHIとして世界で愛されているように、右近さんが握り続けるぼんごのおにぎりもONIGIRIとして世界に響き渡っていく――。
(取材・文:小野建史)