【前編】暗闇に負けない!希望の調べ 全盲のバイオリニスト・穴澤雄介さんより続く
ハンディキャップがありながらも、がむしゃらに、泥臭く歩んできた半生。
つらく苦しい経験を重ねてきたからこそ、穴澤雄介さん(48)の音は聴く人の心に灯をともすのだ。
5月30日からは東京都写真美術館ホールを皮切りに、主演ドキュメンタリー映画『光をみつける』(永田陽介監督)が全国順次ロードショー公開される。
そんな穴澤さんの半生とはーー。
穴澤さんは’75年3月29日、千葉県市川市に生まれた。
父は、医療機器会社に勤務する会社員で、母は専業主婦だった。
「私は先天性の障害が心臓と目にありました。生まれたときに紫色の顔をしていたそうで、即入院。2歳までほとんど病院で過ごしていて、入院や通院を繰り返していたのを覚えています」
母は、穴澤さんを妊娠中に風疹にかかったのだという。
「じつは、医師から『障害児になるかもしれません』と告げられた母は、堕胎しようと考えたらしいんです」
堕胎に反対したのは、父だった。
「父は、母にこう言い張ったそうです。『もう心臓も動いているのに、人殺しみたいで気が進まない』と。そのおかげで、私はこの世に生を受けることができました」
しかし生まれた子には、障害があった。「だから言ったじゃないの!」。母は父に激怒したのだと。
「母はなんでも完璧にできないと許せない性格でした。料理、掃除、裁縫とあらゆることをハイレベルにこなすだけに、産んだ子が障害児だったことが、許せなかったんだと思います」
■視力が落ちるたびに激怒した母 穴澤さんは14歳のときから会っていない
母のことで、穴澤さんの口からいい言葉は出てこない。それでも産み育ててくれた母ではないか。
「確かに通院も世話も、母がしてくれました。でもそれらが、私への愛情からだったのか疑問です。
母は私の視力が落ちるたび激怒しました。それも、わが子が具合が悪くなるのが許せないからだと私には思えた。暴力的なことさえ、されてきましたから」
しぜん母との時間が窮屈になり、叱られるのが怖くなった。逆に父のおおらかさに、救われたのだと振り返る。
「父はズボラな人です、寝たばこしていて焼け焦げを作ってしまうような。だからか、息子の私にも何もうるさく言わなかった」
幼少時期から運動を制限され、眼鏡をかけていた穴澤さんがバイオリンに触れたのは5歳のこと。
中学進学の際は、音楽大学付属中学も合格したが、筑波大学附属盲学校中学部への入学は、自分で決めた。母には大反対されたが、希望を通したのだ。
進路を考えるこのころ、家では両親の不仲が明らかになってきた。
「家に帰れば父母がけんかしているんです。母はだんだん家に帰ってこなくなりました。中学2年生のとき、両親は離婚しました」
穴澤さんはサラリと振り返る。
結局この14歳の多感な時期から今日まで、母には会っていない。
「大人になって以後、一度、手紙は来ましたが『元気でやりなさい』というような内容でした。
恨んでいるわけではないのですが、あえて会うこともないと思うんです」
いま母について話す口調は淡々として抑揚がなく、なんの感情も抱いていないかのようにも映る。
ともあれ、両親の離婚後は、脱サラして貿易会社を起業していた父と一緒に暮らすことになった。
折あしくバブル崩壊直後で、父が経営する会社も業績悪化する。
穴澤さんは高等部卒業後、2年の専門教育を受けられる専攻科音楽科に進学。音楽を仕事にするためだった。
’95年、専攻科を修了するとフリーランスで音楽活動をスタート。
■夜逃げした父は29歳のとき消息が判明。5年前、危篤状態で意識のない父に手向けの曲を奏でて
事件は21歳のときに起きた。父の会社の倒産と、夜逃げーー。
いきなり自宅にやってきた債権者に取り囲まれ、商売道具のバイオリンだけ死守してほうほうの体で家を飛び出し、知人や友人宅を転々とした。
2カ月後なんとか4畳半アパートに落ち着いたが、家からは家財道具一式、持ち去られていて……。
「残ったのは炊飯器だけ。お米を炊いてもおかずを買う余裕がなかった。体重が40kg台に落ち、ガリガリに痩せ細ってしまいました」
視覚障害者の手当はあったが、それだけでは生活できない。市川市役所で追加支援の有無を聞くと、信じがたい差別発言を放たれた。
「50代の男性職員が、笑いながら『あなたみたいな人にできる援助はないということですわ』と言いました。強烈な悔しさで涙が出て」
その怒りが、一切の甘えと退路を断った。以来「どんなに小さい仕事でもくまなく探して取りに行く」営業スタイルで動きだした。
そしてついに、CDデビューのチャンスが。’99年、24歳でアルバム『シンシアリー・ユアーズ』を発表したのだ。
「プロとして『やっていける』と思えた瞬間です。収入はわずかでしたが、これを営業ツールにして『食べていける』自信になった」
’06年、第25回浅草ジャズコンテストで金賞。そして’10年、障害のあるミュージシャンの国際音楽コンクール「第7回ゴールドコンサート」でグランプリを受賞。
夜逃げしていた父は、穴澤さんが29歳のころ消息がわかった。
「保健所から電話で父の名前を言われ『息子さんですね』と。結核にかかって身元引受人が必要となり、私に連絡が来たんです。『ああ、父は生きていたんだ』と」
父からも直接、電話を受けた。
「特に夜逃げしたことを謝るでもなく『大変なことになって参ったよ~』と。基本やさしくおおらかな人。怒る気もありませんでした」
その寛容さは、父への特別な思いがあったからだと打ち明ける。
「私に生を受けさせてくれたのは、父だという感謝があるからです」
父の結核は快方に向かい、穴澤さんはその後「付かず離れず」の距離にいた。
その父が71歳で亡くなったのは、’18年8月。穴澤さんは、その日、埼玉県でライブ中だった。
「当時、父は軽い脳梗塞を発症してリハビリ後、神奈川のグループホームに入所していました。そこで脳幹出血で倒れて『危篤状態です』という連絡を受けました」
穴澤さんはライブをアンコールまでしっかり演奏し終え、神奈川まで電車を乗り継いだ。
「夜12時近くでしたが、もう意識のない父に向け、消音器をつけてバイオリンで演奏しました。父が好きなビバルディの『四季』から『冬・第二楽章』を」
父と息子だけの小さな演奏会を終えると、病室は無音になった。
「中途失明で、心臓疾患があって、生活困窮者だった私が、なんとか演奏家として生活できています。
どこかにコンプレックスがあっても、人それぞれ与えられた環境で、ベストを尽くすことが大事。それを、ひとりでも多くの方に伝えていきたいと思っています」
穴澤さんの音が、先々で出会う人たちに、光をもたらしていく。
(取材・文:鈴木利宗)