【前編】子ども3人ママが末期がん告知で一念発起 余命2カ月を超えて走り続けるキッチンカーから続く
目の前のキッチンでパワフルに働いている女性が末期がんとは、あぜんとするしかない。しかも“店”を始めたのが余命を宣告された2カ月後とは……。
転職、スピード婚、子育てで発揮してきたそのバイタリティは、がん告知されても変わらない。体がいつどうなるかわからないけど、走り続けると覚悟を決めたのだ。
子どもたちは将来「キッチンカーのクレープ、うまかったよな」と思い出してくれるーー。
秋吉さんは1977年、佐賀県佐賀市に生まれた。幼いころから活発で負けず嫌い。当時の夢は「自分の店を持つこと」。飲食店を営んでいた叔母に憧れていたという。
「まだ、バブルが弾ける前で、叔母はとても羽振りがよくて。『由紀ちゃん、いまの時代、女性でもこうやって仕事ができるし、稼ぐことだってできるのよ』って」
商業高校を卒業後、県外の調理師専門学校に進みたかった。だが、父の猛反対にあう。生まれ育った佐賀には依然、女性に対する偏見が色濃く残っていた。
「父は『女が学校なんか行かんでよか。頼むから20歳までは家におってくれ』と。私は、すごくばかにされた気がしたのを覚えています」
仕方なく、秋吉さんは地元の農協に就職。2年間勤めたのち、退職し一人暮らしを始めた。
「いろんな仕事を掛け持ちしながら自分で学費を稼いで、夜間の調理師学校に通いました」
22歳、念願だった調理師の資格を取った秋吉さんは大阪に。飲食店を何店舗も営む、社員寮もある会社に、正社員として就職した。
「最初はホール、その後は調理場に入って5年ほど勤めました。営業時間は朝まで。250席が3回転するような忙しい店。朝の9時過ぎに寮に戻って、午後2時にはまた出勤。むちゃくちゃな生活でしたが、体力には自信あったから。たいへんでしたけど楽しかった」
やがて、叔母から「店を譲る」と言われ、佐賀に戻ったのが27歳のとき。しかし、バブルは遠い昔で、街のにぎわいはすっかり消えていた。
「驚くぐらい人がいなかった。いるのはお年寄りばかり。ここでの商売は無理、そう思いました」
そこで秋吉さんは方針転換。「高齢化が進む故郷で先々、商売をするにしても、まずは勉強」と、介護の職に就いたのだ。
「ヘルパー2級の資格を取って、まずは老人ホームで働いて。次いで佐賀医大附属病院の、調理師の仕事に就きました」
■体力には自信があったし「用心するのは40歳から」だと思っていた38歳のとき、がんに
秋吉さんが結婚したのは30歳のとき。お相手は、1歳上の敬介さん(46)。出会いから挙式まで1年足らずのスピード婚。そして、31歳から2年ごとに、長男・龍青くん(14)、次男・帝駕くん(12)、三男・剛宗くん(10)と3人の子宝にも恵まれた。
体力には自信があった。もちろん女性だから、乳がんという病いは気にはなったが「用心するのは40歳から」、そう思っていた。なにより、子育てと並行して仕事も続けていて「忙しくて、気が回らなかった」。ところが……。それは38歳の夏のこと。
「スキルス性の胃がん、ステージ4です」
胃痛で病院を受診した秋吉さん。医師から告げられた検査結果に、言葉をなくした。
「がんのあなたに責任ある仕事は任せられない」の言葉に奮起、42歳で女子短大に入学
「とっさに口を突いて出たのは『困ります』でした。忙しい職場は人手が足りなくて。自分の病気のことをすぐには呑み込めないなか、いま、私が休むわけにはいかない、その思いが先に立ったんです」
当時、秋吉さんは介護施設の調理師として働いていた。わずかなスタッフで毎日、180人の高齢者の食事を用意していた。いっぽう、プライベートでは次男の食物アレルギーを就学までに治してあげたいと、家族の食事にも気を揉んでいた。さらに、夫の父親が急な病いに倒れ入院。連日、体の弱い義母を連れ、見舞いにも通った。そんななか、胃痛に襲われて「ストレスで胃潰瘍になった」と思い込んでいたのだ。
急逝した義父の四十九日の法要を済ませ、近所の病院で胃カメラの検査を受けた秋吉さん。結果、医師が告げたのが前述の「ステージ4の胃がん」。同時に乳がんも見つかった。医師からは「明日にでも胃の全摘出手術を」と促された。
「最初は先生の言葉の意味が、本当にわからなかった。『私ががん? よ、こんなに元気なのに』って」
秋吉さんは、セカンドオピニオンを求め、福岡県の国立病院機構九州がんセンターで、改めて精密検査に臨む。結果は同じだったが、がんセンターの医師は手術ではなく「ホルモン療法」を勧めてくれた。
「私のケースは、まず乳がんが先で、それが胃に転移したものでした。それで、いまもお世話になっているがんセンターの先生は『乳がんの餌となっている女性ホルモンを抑える治療をしましょう』と」
1カ月に及んだ検査入院。秋吉さんは「がん」という病いと、忍び寄る「死」を、強く実感することに。
「隣のベッドの人が亡くなったんです、膵臓がんで。私はスマホでがんのこと、ググったりして。普通に『やばい!』と思いましたよ。それで、イヤホンして、大好きなK-POPのBIGBANGの曲を大音量で聴きながら『隣の人は隣の人、私は大丈夫』と自分に言い聞かせてた」
入院中のある日。売店で見つけたあるものに、秋吉さんはすがる思いで、手を伸ばしていた。
「それは『死ぬまでにしたい100のこと』というノートでした。自分でも書いてみようと、すぐ買いました。ただ死を待つんじゃなくて、やりたいこと、いまからできることを探したいと思ったんです」
秋吉さんが「これです」と差し出したノート。ページをめくると、そこには「USJに家族でいきたい」「北海道にいきたい」といった具体的な“したいこと”と併せて「死ぬときは、そばにいてほしい」という切ない“夢”も綴られていた。さらに、幼い息子たちの行く末を案じて書いたであろう「子供たちを20才まで育てたい」「子供たちの結婚をみとどけたい」「まごをみたい」、そして、3人の息子の名の後に「私の背をいつ、おいぬく?」という書き込みも。
「BIGBANGを聴きながら、病気に負けてたまるかって、もう、一心不乱に書きました」
■「がん患者に責任ある仕事はまkじゃせられない」の言葉に一念発起、42歳にして女子短大を受験・入学
退院後、治療を受けながら、秋吉さんは仕事に復帰。ホルモン療法が奏功し、容体は安定。がんは少しずつ小さくなってもいた。
「最初は仕事量も減らしてもらってましたが、意外に私が元気なので、だんだんとペースは戻っていって、気づけば以前と変わらぬ仕事をこなすように。ちょうどそのころ、責任者のポストが空いて。実績的には私が後任でもおかしくなかったのですが……」
結果的には、別の同僚が出世することに。会社からは「がんのあなたに責任ある仕事は任せられない」と説明された。
「悔しかった。私、がんを告知されても一度も泣かなかったのに。そのとき初めて、家に帰って大泣きしました。『こんなふうにして、私の人生、終わるのかな』って」
それは、これまで必死に蓋をしてきた不安や恐怖といった後ろ向きの感情が、一気に涙となってあふれ出てきたかのようだった。
しかし、彼女はひとしきり泣くと、ここでふたたび立ち上がる。なんと秋吉さんは2020年、42歳にして佐賀女子短期大学を受験し、入学を果たすのだ。
「栄養士の資格を取ろうと思ったんです。自分の病気、それに息子のアレルギーのこともあって、食の大切さを痛感したので。もう一度、学び直したいと考えました」
思えば、「100のこと」にも「栄養士をとりたい」「短大に上がりたい」と記していた。そして、2年後の昨年3月、秋吉さんは短大を無事卒業。栄養士の資格も取得した。
しかし、達成感に浸ったのも束の間、4月になると体調が急変。がんが大腸にも転移したのだ。
「栄養士として働き始めた矢先でしたから、最初にがんが見つかったときよりもショックでした。新たに飲み始めたがんの進行を遅らせる薬は1錠およそ5千円と、たいへん高価で。そのうえ副作用の強い下痢にも苦しみ、10kg以上体重も落ちました。やがて腸閉塞も併発して、激痛で意識をなくしそうになって、病院に担ぎ込まれることになったんです」
そして昨年7月。主治医は秋吉さんにこう告げた。
「このような状態が続けば、余命は2カ月ほどかもしれません」
■「どうせ死ぬんやったら」自分の“店”キッチンカーのハンドルを握ることを決意
余命宣告を受け、心が折れそうになりながら、秋吉さんはまたも前を向いた。あの「100のこと」のいちばん最初に書いた夢が「自分の店を持ちたい」だった。「どうせ死ぬんやったら」と、ユキチャンキッチンの開業を決意したのだ。主治医も「がん患者だから店を持てないということはない」と理解を示してくれた。そして夫・敬介さんも。
「夫にはキッチンカーのリース契約とか決めてから事後報告。でも、私の説明を聞いたら『よかっちゃなか~』って。佐賀弁で『いいんじゃないの』ってことです。あの人は、いっつもそんな感じで(笑)」
昨年9月。宣告どおりなら、到底握れるはずのないキッチンカーのハンドルを、秋吉さんは確かに握っていた。やがて、病いを押して頑張る秋吉さんの存在は、徐々に地域の人々に浸透。とくに中原は夫が生まれ育った町。敬介さんの旧友たちなど、手を差し伸べてくれる人が大勢、現れた。
「駅前のスーパーマーケットの社長さんもそう。キッチンカーの営業中に直々に来られて、『うちの駐車場に出店しませんか』と。いま、スーパーの店舗は休業中ですが、ケータリングや、介護施設などへの出張販売は続けているそうで、『うちのケータリング先にも、キッチンカーで一緒に行きませんか』とまで言ってくださって」
聞けば、秋吉さんの息子たち同様、その社長も3兄弟、彼はその長男だという。
「そのうえ、お母さんを高校時代に亡くされていた。思春期だったからか、社長は『照れくさくて母親の手伝いなどろくにできなかった』と。そのことをひどく後悔しているようで、私のことを『だから応援させてほしいんだ』と」
秋吉さんは、今日もキッチンカーを走らせる。