小津安二郎エピソード0 脚本家・放送作家の児島秀樹さんが描いた、巨匠の知られざる教員時代

脚本家・放送作家の児島秀樹さん(67)が、小説「おーづせんせい」(徳間書店、2200円)で、映画監督・小津安二郎(1963年死去、享年60)が映画界に入る直前、三重県内の小学校で代用教員(資格を持たない教員)を務めた1年間を描いた。生徒との型破りな交流や初恋など、小津作品の原点となるエピソードがつづられている。(土屋 孝裕)
1922年(大正11年)の春、18歳の小津安二郎は三重・飯南郡宮前村(現在の松阪市飯高町)の尋常小学校に代用教員として赴任した。土地独特の方言で「おーづ先生」と呼ばれた小津は、時には授業そっちのけで、自分が見た映画(活動写真)の内容を弁士さながらに解説するなど、型破りな教師ぶりで子供たちから好かれていく。
翌年、父の引っ越しに伴い、宮前村を離れ上京することになるのだが、さまざまな事情を抱えた生徒と交流し、淡い初恋も経験。後の小津作品に少なからず影響を与えた1年間を過ごした。
それを裏付けるように、「東京物語」の京子(香川京子)をはじめ、小津作品の多くに教師は登場している。小津が子役の扱いに定評があったことも知られている。だが、教員・小津について語られた著書は、これまでほとんどなかった。
「資料が少なく、なかなか見つけられなかったということも理由だと思いますが、実は小津監督自身も、教員時代のことはほとんど語っていないんです。なぜなんだろうと、ミステリアスな気持ちになったのが執筆の出発点です」
小津が10代の青春期を過ごした第二の故郷・三重県出身で、いつか小津のことを書きたいと思っていた児島さんは、松阪市の小津安二郎資料室で、一冊の資料を見つける。小津が教員を辞めた70年後に、小津の教え子約60人が小津との思い出を描いた文集だった。
「70年もたっているのに、皆さん鮮明に覚えていた。ある方は、小津先生はまるで(夏目漱石の)『坊っちゃん』だった、と書かれていた。小津安二郎に『坊っちゃん』の主人公のように破天荒な教師の時代があったのかと驚きました」
文集によると、生徒の一人は卒業から5年後、東京の奉公先でのいじめに耐えかね、松竹の蒲田撮影所にいる小津を訪ねたという。すでに人気監督として多忙を極めていた小津が、その生徒のために時間を割いて面会したこともつづられていた。
「『地獄で仏に出会った気持ち』と書かれていて、このシーンから始まる物語を書きたいという気持ちが高まりました。詳しく調べていくと、小津映画の源はひょっとして教員時代の1年間にあるんじゃないかと思えてきた。私が一番好きな小津作品は『浮草』という伊勢志摩を舞台にした旅芸人の物語なのですが、実際に旅芸人と濃密に交流したのもこの時代なんです」
物語はフィクションの部分もあるが、小津に関わる部分については、調べた事実を基に、できるだけ忠実に再現。「小津安二郎エピソード0」的な作品に仕上がった。
初めての小説を書き上げ、児島さんはもう一度、なぜ小津が教員時代のことを語らなかったのかと考えた。小津は自身のディレクターチェアに「AUZ」と記すなど、「おーづ」と呼ばれることを気に入っていたという。小津にとって“黒歴史”だから語りたくないとは思えなかった。
「教員時代の1年間は、竜宮城で過ごしたような気持ちだったと思うんです。有名になってから、住んでいた松阪市には何度も帰っているのですが、宮前村には一度も行っていない。それは浦島太郎が竜宮城に戻らないのと一緒じゃないのかと。夢の時代のすてきな思い出は、玉手箱を開けてはいけないように、誰にも語らず自分の中で大切にして、その気持ちを映画で全部表現したのだと思う」
生誕120年を迎え、世界で最も多く評論が出版されていると言われる小津だが、まだまだ隠された魅力があるようだ。
〇…表紙のイラストは、人気漫画家のちばてつや氏(84)が小津安二郎を描いた。ちば氏が自分の作品以外で表紙を描くのは極めて珍しいという。児島さんは「小津監督と、ちば先生の作品の世界観は、重なるところがあると思ってお願いしました。ゲラ原稿を読んだ上でOKをいただいた。夢がかないました」。
◆児島 秀樹(こじま・ひでき)1956年2月3日、三重・伊勢市生まれ。67歳。大学卒業後、舞台製作などを経て、TBS系「世界ふしぎ発見!」の番組構成を担当。NHK・BSプレミアム「洞窟おじさん」(15年)、映画「スクール・オブ・ナーシング」(16年)などの脚本を手掛ける。現在は京都在住。