〈ついに逮捕〉市川猿之助容疑者(47)は美意識が高く繊細かつ傲慢で毒舌…パワハラ報道に「特に弟子の扱いが酷い。平然と放送禁止用語で罵倒する」遺書の相手「愛するA」の母はかつて取材に「兄のような存在」と語っていた

歌舞伎俳優・市川猿之助(47)=本名・喜熨斗孝彦=が両親と心中を図り、自分だけが生き残った事件で警視庁は6月27日、母の延子さん(享年75)の自殺をほう助した疑いで猿之助容疑者を逮捕した。「集英社オンライン」では事件後これまで複数回にわたり猿之助事件について報じてきた。事件はなぜ起きたのかー。複数の証言とともに振り返る。
事件は猿之助の性加害問題を報じた女性誌の発行日(5月18日)に起こった。猿之助は逮捕前の任意聴取に「週刊誌報道をきっかけとして家族会議が行われ、みんなでさよならすることにした」と説明したという。
市川猿之助(写真/共同通信社)
「猿之助さんは自殺未遂後、医師に『(女性誌に)あること、ないこと書かれた』と説明したようですが、お弟子さんや澤瀉屋内では、猿之助さんの振る舞いや言動に対する不満の声は以前からあり、書かれたらやばい“トラブル”はまだまだあった。これまで梨園のトラブルやスキャンダルはどこかで、『芸の肥やし』として許されてきましたが、昨年の香川照之さんのパワハラや、一連のジャニーズ事務所のセクハラ報道など世間の目はどんどん厳しくなっている。繊細な猿之助さんは、そうしたバッシングが怖かったのかもしれません」(スポーツ紙デスク)猿之助こと本名、喜熨斗(きのし)孝彦は1975年11月26日、四代目段四郎と妻・延子の長男として生まれ、一人っ子として育った。後に名跡を受け継ぐ三代目猿之助(現二代目猿翁)は段四郎の兄であり、伯父にあたる。猿之助と段四郎が二大看板の澤瀉屋(おもだかや)にあって、そのど真ん中に生を受けた孝彦は二代目亀治郎を襲名して7歳で初舞台を踏んだ。私生活では小学校から高校卒業までフランス系カトリック校の名門私立学園で学び、慶應義塾大学に進んで国文学を専攻、卒業した。小学校から高校時代までの同級生は当時をこう振り返る。
中学時代の猿之助(知人提供)
「当時、猿之助は『キノシ』と苗字で呼ばれる事が多かったですね。おとなしいグループに属していて、いつも2、3人で追いかけっこしたり、校内に咲いてる花を友達と眺めたりしていました。家族が歌舞伎関係者なのは知っていましたが、段四郎さんと聞いても当時はピンとこないし、キノシも歌舞伎の稽古をしているのだろうくらいにしか思っていませんでした。歌舞伎の女形の練習をしていたこともあってか、小学校の頃から走り方や喋り方、ちょっとした仕草にツヤっぽさを感じさせるところはありました。中学に進むと、まつ毛が長く目もとが綺麗で『歌舞伎役者ってすごいな』と思った覚えがあります。イジメとかとは無縁だったと思います」男子校だったこともあり、同級生は休み時間や放課後に好きなアイドルや芸能人を言い合うことで盛り上がることがしばしばあったが、猿之助はこの手の話題には興味がなかったようだ。
高校時代、目立たず寡黙で歴史好きだった少年は、卒業後、世間から注目を集めていった。2007年にNHK大河ドラマ『風林火山』で武田信玄を演じて以降、テレビドラマ、映画、バラエティ番組に多数出演するなど、活躍は歌舞伎界に留まらなかった。ある同級生は繊細だった「キノシ」を振り返りつつ、冷静にこう語った。「校内に咲いている花をよく友達と眺めたりしていましたけど、今になって思えばちょっと繊細というか独特な感性だったのかもしれませんね。当時はパワハラやセクハラをするタイプではなかったですが、いつしか自分に従ってくる人間に対して傲慢になってしまったのかもしれませんね。30代の頃に同級生で集まって飲んだときは、キノシは昔のナヨっとした感じが消え、凛々しさがでていました。。仕事で活躍するようになっていたし、昔は周りにいなかった同級生も『キノシ、キノシ』と集まるようになっていた。自分を取り巻く環境がガラッと変わり、勘違いするようになったのかもしれません」
高校時代の猿之助 (知人提供)
いっぽう澤瀉屋内では、かねて水面下で猿之助のパワハラ体質が噂されてきた。梨園と関係の深い松竹関係者はこう証言する。「孝彦はひとことで言うと、繊細かつ傲慢で毒舌。頻繁に手を洗い、スキンケアにこだわるなど美意識が高い反面、傲慢なエピソードにもこと欠かない。女性誌にも書かれてしまったけど、特に弟子の扱いが酷い。気分次第で理不尽にキレて『お前らは家畜だ』とか、平然と放送禁止用語で罵倒するんです」猿之助は、結婚するつもりがないことを公言していたため、跡取りは必然的にもうけにくい。しかし、このことで両親との仲が険悪になるようなことはなかったという。数年前までは舞台の大道具をつとめた裏方と同棲生活を送り、最近想いを寄せた相手は、マネージャー業もつとめていた渦中の“俳優A”だったAは、自身も俳優をしながら何度かスポーツ紙やワイドショーを賑わせたことのある人物だ。そのAが猿之助と接点を持ったのは、数年ほど前だという。「当時Aは新橋演舞場や明治座で大道具の仕事をして食いつないでいて、猿之助と言葉を交わすうちに親しくなり、飲食をともにするうちに急速に親しくなっていった。Aは男女を問わず年長者の心を掴む手腕に長けていた」(スポーツ紙記者)猿之助のAの寵愛ぶりは澤瀉屋関係者の目に余るほどだったようだ。そして今回の事件で、猿之助は自殺を図った自室内に立てかけたキャンバスにこうメッセージを残していた。<愛するA だいすき 次の世で会おうね><Aを喜熨斗孝彦の養子にし、遺産の全てを相続する>ここまで一心に愛を注がれたAは、事件当日は現場で泣き崩れる姿をマスコミに目撃されている。事件直後の5月某日、Aの母は「集英社オンライン」の取材にこう答えた。「(子どもが)歌舞伎関係のお仕事もしているとは聞いていましたが、猿之助さんの身の回りの世話までしていたとは聞いていません。猿之助さんはとても素晴らしい方だと聞いていました。舞台でもご一緒しており、兄のように慕っていました」
警察車両に乗り目黒署にはいった猿之助(撮影/集英社オンライン)
これまで寵愛を受け続けてきたは、猿之助の逮捕に何を思うのだろうかー。逮捕後、再びの実家に電話をかけたが、電話はすぐに切れてしまった。※「集英社オンライン」では、今回の事件について取材をしており、情報を募集しています。下記のメールアドレスかTwitterまで情報をお寄せ下さい。メールアドレス:[email protected]@shuon_news取材・文/集英社オンライン編集部ニュース班