九州の田園に存在した「東洋一の飛行場」とは 戦前に国際旅客便も 面影がほぼなくなってしまったワケ

現在は農地や工業団地が広がり、のどかな風景が見られる福岡県の筑後地方北部。しかし、同地にはかつて世界屈指の規模と呼ばれた広大な飛行場がありました。都会から遠い九州の地になぜそうした施設ができたのでしょうか。
2023年現在、日本国内で最大の飛行場は東京都大田区の羽田空港(東京国際空港)になります。その規模は大田区の面積の4分の1を占める約1520ヘクタール。4本の滑走路と3つのターミナルを有しており、2019年には乗降客数で世界5位になっています。
このように今や世界屈指の巨大空港となった羽田空港ですが、開港したのは1931(昭和6)年8月のこと。当時は東京飛行場という名で開設されています。いうなれば、羽田空港は開港してからまだ100年経っていないのです。
むしろ、羽田空港よりも10年以上前に開港し、かつては「東洋一の飛行場」と呼ばれた巨大な飛行場が九州にありました。なぜ、九州にそんな巨大な飛行場があったのか、その後どうして消えてしまったのか、振り返ってみましょう。
九州の田園に存在した「東洋一の飛行場」とは 戦前に国際旅客便…の画像はこちら >>大刀洗平和記念館で2022年から展示が始まった先尾翼の日本海軍局地戦闘機「震電」の原寸模型と、同じく日本海軍航空隊所属の零式艦上戦闘機三二型の実機(吉川和篤撮影)。
1914(大正3)年7月に第1次世界大戦が始まり、欧州の戦場には新たな発明品である航空機が登場します。日本にはすでに埼玉県・所沢の地に、我が国初の航空機専用飛行場として所沢陸軍飛行場がありましたが、陸軍は早い段階で飛行機の有用性と発展性に着目し、各地で飛行場建設を始めます。こうして1917(大正6)年6月には2番目の陸軍飛行場として岐阜県各務原に飛行場が完成、所沢の航空第二大隊が移駐しました。

このような流れのなか、九州北部にも飛行場建設の計画が1916(大正5)年に立ち上がります。調査の結果、飛行場は現在の福岡県三井郡大刀洗町から朝倉郡筑前町や朝倉市にかけての広大な地域に建設されることが決定、「大刀洗陸軍飛行場」の名で1919(大正8)年10月に完成しました。
こうして九州初の飛行場として開設された大刀洗飛行場の面積は、46万坪(152万平方メートル)。東京ドームで換算すると32個分の広さでしたが、当時の飛行機は軽量な複葉機だったので飛行場といっても平らな草原が広がるだけでした。完成すると、さっそく所沢から航空第四中隊が移駐して、同年12月には航空第四大隊に昇格しています。
ただ、大刀洗がある場所は大都市、福岡や小倉、玄関口の門司などから離れた内陸部です。このような地に飛行場の開設が決まった理由としては、朝鮮半島を経由して中国大陸に進出するための航空隊が用いる中継基地として、九州北部という地理的な条件を満たすと共に筑紫平野の東側の飛行場に適した平坦で広いエリアがあったからでした。また内陸部に位置していたため、敵艦船からの艦砲射撃の影響も受けにくいというメリットも有していました。
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日本航空輸送(当時)が使用した米フォッカー・スーパーユニバーサル旅客機が描かれた当時の絵葉書。同機は中島飛行機(現SUBARU)でライセンス生産され、旧日本陸軍も九五式二型練習機として20機導入している(吉川和篤所蔵)。

九州における航空の中心地となった大刀洗飛行場はその後も拡充を続けます。加えて彼の地で産声を上げた航空第四大隊は飛行第四大隊への改編を経て、1925(大正14)年4月には飛行第四連隊へと昇格します。また、この時期には台湾の飛行第八連隊も同地に駐屯していたため、大刀洗陸軍飛行場は定員1500名におよぶ日本最大の航空基地となりました。そのため、新型機もいち早く配備されるようになり、フランスのニューポール29C-1複葉戦闘機を国産化した甲式4型戦闘機や、同じくフランスのサルムソン2A2複葉機を国産化した乙式1型偵察機などが配置されています。
それとは別に、1929(昭和4)年4月には民間の日本航空輸送が大刀洗飛行場の一部で運航を開始し、陸軍から払い下げられたサルムソン2A2複葉機で郵便や貨物輸送を行いました。これは西日本における民間航空の発祥となります。さらに旅客輸送や遊覧飛行なども行われ、高翼単葉で乗客6名の米フォッカー・スーパーユニバーサル旅客機も離着陸するようになりました。運行ルートは、国内の東京~大阪~大刀洗や海外の大刀洗~釜山~京城(現ソウル)~大連で、このように大刀洗は東京や大阪といった国内の大都市と、朝鮮半島や中国大陸とを結ぶ一大中継地点へと昇格していったのです。
加えて1932(昭和7)年7月には満州航空も営業をスタート、日本航空輸送から乗り継ぎ便で大刀洗から満州のチチハルまでの旅客便が開設されました。このように大刀洗飛行場での日本航空輸送による民間航空の利用は続きますが、満州事変が始まり日中戦争が迫った1936(昭和11)年に同社は福岡県雁ノ巣に新設された福岡第一飛行場に移ったことで、再び大刀洗は陸軍航空隊専用の飛行場に戻っています。

また、飛行場の拡充に伴って同地へ物資や人員を輸送する目的で鉄道引込み線も計画され、1939(昭和14)年4月に国鉄甘木線が開業しました。これは現在でも存続しており、佐賀県の基山駅から大刀洗を経て甘木駅へと通じる甘木鉄道甘木線となっています。
こうして太平洋戦争前には大刀洗陸軍飛行場は東洋一の規模となり、駐屯する飛行第四連隊には日本陸軍初の主翼が1枚構造である低翼単葉の九七式戦闘機が配備されて、主力戦闘機として日中戦争や太平洋戦争の初期まで多用されました。
また、1940(昭和15)年2月には航空機や部品の製作、修理を行う大刀洗航空支廠(のちに大刀洗航空廠)が設立されているほか、航空機製作所も飛行場の北側に開設されています。さらに同年9月には飛行第四戦隊(飛行第四連隊の改名)が熊本県の菊池飛行場に移駐したことで、その替わりとして10月には大刀洗陸軍飛行学校が創設され、東京陸軍航空学校を卒業した若年パイロットたちに向け激しい訓練が行われます。
このような形で航空教育の中枢も担うようになったことで、京都陸軍飛行場から鹿児島県の知覧陸軍飛行場までの西日本の各飛行場や朝鮮半島の飛行場に、大刀洗陸軍飛行学校の分教所がいくつも開設されていきました。
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飛行中の九七式戦闘機乙型。低翼単葉の近代的な設計であったが固定脚式で、この後の一式戦闘機「隼」から引込み脚式となった(吉川和篤所蔵)。

太平洋戦争が始まると、大刀洗は毎年のように変革や拡充を繰り返し、1944(昭和19)年には、滑走路2本を有した北飛行場も完成しました。ただ、その一方で戦争末期には、特別攻撃隊(特攻隊)の中継基地としても多用されるようになり、1945(昭和20)年1月には大刀洗飛行学校でも特攻隊が編成され、九八式直協偵察機36機が宮崎県の新田原飛行場から出撃しています。
また、規模の大きな飛行場としてアメリカ軍の攻撃目標にも選定され、同年3月にはB-29爆撃機による空襲を受け、付近の住民を巻き込んだ甚大な被害を出しています。
戦後、日本陸軍が解体されると、大刀洗の飛行場と航空廠の広大な土地は民間へと払い下げられて農地やビール工場などの工業用地に転用されてしまいました。そのため、東洋一の飛行場を偲ぶ術もかなり難しくなっています。
それでも、福岡県朝倉郡の筑前町立「大刀洗平和記念館」には、博多湾の埋め立て工事で発見された世界で唯一現存する九七式戦闘機が展示されているほか、博物館の周囲には門柱跡や慰霊碑、掩体壕(えんたいごう)や監的壕(かんてきごう)なども点在しています。また、前出の甘木鉄道甘木線のほか、西鉄甘木線も運行しているので、列車の旅とともに、こうした戦争遺構を見学して、「東洋一」といわれた往時の飛行場に思いを馳せてみてもよいのではないでしょうか。