75年ぶりに新規開業した路面電車として注目を集めている宇都宮のLRT。その鉄路が伸びる工業団地はかつて飛行場でした。同地に赴いてみたら、終戦から80年近く経った現在も遺構を見つけることができました。
2023年8月26日に開業した宇都宮ライトレール(ライトライン)の沿線には、かつて旧日本陸軍の飛行場が存在していました。東北本線(JR宇都宮線)から分岐する軍用鉄道も建設され、現在でも掩体壕や廃線跡といった遺構を確認することができます。
飛行場の名前は「宇都宮陸軍飛行場」。跡地は現在、内陸型としては国内最大規模の工業団地である宇都宮清原工業団地となっており、そのなかを宇都宮ライトレールが走り抜けています。区間でいうと「清陵高校前」停留場~「ゆいの杜西」停留場のあいだになります。
宇都宮LRTが横断! そこは「陸軍飛行場」だった 80年前に…の画像はこちら >>宇都宮ライトレールHU300形から下車する通勤客(咲村珠樹撮影)。
宇都宮陸軍飛行場は1940(昭和15)年に当時の芳賀郡清原村鐺山(こてやま)に作られました。開設されると、パイロットを養成する宇都宮陸軍飛行学校や、航空機整備員や技術者を養成する宇都宮陸軍航空支廠が設置され、地元では「清原飛行場」または「鐺山飛行場」と呼ばれていたといいます。なお、飛行学校はこの場所だけでなく、周辺の県にある飛行場にも分教所が設置され、広く使用されていました。
開設から1年後の1941(昭和16)年12月に太平洋戦争が始まりましたが、戦況が悪化した1944(昭和19)年には、航空教育やそれに関連する各種研究を行っていた白城子陸軍飛行学校が満州(現在の中国東北部)から宇都宮へと移転、これに伴い作戦行動も任務とする宇都宮教導飛行師団へと改編されています。これにより宇都宮陸軍飛行学校は閉鎖(正式な廃止は1945年4月)され、飛行場は本土防空の基地として使用されるようになりました。
ただ、1945(昭和20)年8月に日本が米英に無条件降伏する形で戦争が終わると、軍は解体され、飛行場も廃止。加えて航空機の飛行についても一切禁止となりました(後年復活)。その結果、建物や敷地などは清原村(当時)へと払い下げられ、学校などが建てられたのち現在に至っています。
清原工業団地の南にある栃木県農業大学校の敷地には、1944(昭和19)年頃に作られたとみられる掩体壕(有蓋掩体)が2基、残されています。農業大学校は1938(昭和13)年から当地にあるのですが、飛行場に隣接していたことなどから、軍が土地の一部を活用したようです。
Large 230920 utsunomiya 01
旧日本陸軍の四式戦闘機「疾風」(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
大学校ではガイドツアーなどは行っていないため、今回は事前に見学申請を出す形で、特別に職員の方の案内で掩体壕を見せてもらうことになりました。ところが、その手前には背丈ほどの夏草が生い茂っており、スズメバチやマムシが出る危険があったため近寄ることはできず、やむなく300mほど離れた場所から、2基あるうちの大型機用のみを見ることになりました。
アーチ状になった鉄筋コンクリート造の掩体壕は上に土が被せられ、遠くから見るとまるで古墳のようでした。なお、こちらに残る2基の掩体壕のほか、大田原市の旧金丸陸軍飛行場跡にある掩体壕1基、そして那須烏山市の烏山防空監視哨、鹿沼市の口粟野防空監視哨は「栃木県の防空関連施設群」として、2012(平成24)年度の土木学会選奨土木遺産に選ばれています。
また、かつて東北本線の宝積寺駅からは、物資や人員の輸送を目的として、軍用線が敷設されていました。宇都宮陸軍飛行場および宇都宮陸軍航空支廠に隣接して設けられていた鐺山駅まで伸びていた総延長約11.7kmの鉄路は「宇都宮陸軍航空廠線」といい、1942(昭和17)年1月に建設が始まると、わずか10か月後の11月には早くも完成し、同月より列車の運転が始まりました。
Large 230920 utsunomiya 02
現在の宝積寺駅。画面右側から宇都宮陸軍航空廠線が伸びていた(咲村珠樹撮影)。
しかし、宇都宮陸軍航空廠線は軍用線であったため、終戦にともなって1945(昭和20)年11月1日には廃止されます。その後、1950(昭和25)年にレールが撤去されると、廃線跡は道路(清原学園通り)に転用されました。ただ、終戦から78年が経過した2023年現在も鐺山駅があった場所には、柱の基礎が並ぶホーム跡が残っており、わずか3年で廃止された路線の記憶を今に伝えています。
終戦後、開拓農地となっていた飛行場跡は1970年代に工業団地の造成が始まり、現在の清原工業団地となりました。今ではすっかり様変わりしていますが、前述したように掩体壕や専用駅の遺構は残っています。ここに軍用飛行場や軍用線があった事実は、歴史に埋没させることなく後世に伝えていきたいと、実際に足を運ぶことで改めて感じました。