〈祝・史上初八冠達成!〉「研修会入会当初はぽっちゃりした小柄な子でした」藤井八冠の偉業への道のり。詰将棋が大得意で「序盤中盤は大したことないのに終盤めちゃくちゃ強かった」

前人未踏の大偉業を達成した藤井聡太八冠(21)。しかし、そんな彼も幼いころから無敵というわけではなかった。藤井八冠の幼少期の人物像を取材で掘り下げる本シリーズ。第2回は研修会の師範や藤井八冠をよく知る将棋ライターが“若き日の藤井聡太”を語ってくれた。
祖母が5歳の藤井八冠に「スタディ将棋」をやらせたことが、彼と将棋の出会いだった。将棋ライターの松本博文氏はこう語る。「祖母の話によれば、ほかの孫たちのなかでももっとも夢中になったのが藤井さんだったそうです。最初は祖母に勝てるようになり、6歳になったころには祖父にも勝つようになった。本人も話していますが、とにかく『勝つのがうれしかった』と。この勝つうれしさが藤井さんを強くさせたと言ってもいいと思います。幼稚園で作った6歳の誕生日お祝いの飾りには、『おおきくなったらしょうぎのめいじんになりたいです』と書いています」当時、母の裕子さんは息子が祖父母の家で将棋に夢中になっている姿を、さほど見ていたわけではなかった。だが、祖母からの「もっとやらせてあげたらいい」というアドバイスがあったこと、さらに自宅から自転車で通える距離に将棋教室があったことで、藤井八冠は本格的に将棋を始めることになる。
14歳2ヶ月で最年少プロ棋士となった藤井八冠(撮影/共同通信社)
「ふみもと子供将棋教室に通うようになった藤井さんは、最初から無敵だったわけじゃなかった。小さな教室のなかにもライバルがいて、よく負かされていて、そのたびに泣いていたそうです。とはいえ、参加した将棋合宿では、詰将棋のプリントをたくさん解きながら、『考えすぎて頭が割れそう』なんて言っていたらしく、6歳の幼稚園児がそこまで考え詰めることなんて、そうそうないと思います」(松本氏)やがて本人が希望したこともあり、小学1年生の3月に東海研修会に入会し、小学4年生の9月に奨励会に入るまでの3年半ほど所属していた。東海研修会元幹事で日本将棋連盟公認の棋道師範の竹内努氏(66)は当時の藤井八冠の印象について、こう話す。「今はすらっとしていますが、当時はまるで違っていて、ぽっちゃりした小柄な子でした。次男ということもあってか、ちょっとやんちゃな感じで、じっとおとなしくしているような子ではなかったです。対局と対局の合間は時間があるので暇を持て余したのか、机に向かって仕事をしている私の足の間から飛び出てきて邪魔してきたりするような子でしたね(笑)」
研修会時代は月に2回、朝9時から夕方6時までみっちりと指導を受けた。しかし、驚くことに、当時の藤井八冠はさほど目立つ存在ではなかったという。「入会時のテストは8戦3勝5敗。そのうちの1戦はプロ相手でしたが、4枚落ちでも勝てなかった。1年生で研修会に入ったのは立派ですけど、まだまだ目立った存在というわけでもなく、はっきりとプロを目指している感じでもありませんでした。詰将棋に関してはすごかったけど、指し将棋ではまだまだひよっ子でした」(竹内氏)ただし、非凡なものもすでに持ち合わせていた。藤井八冠は低学年ながら、よく自分で詰将棋を作り、他の研修会員に出題していたのだ。「詰将棋をつくるのはある種特殊な技術で、よっぽどオタクじみていないとできない芸当だから、かなり珍しいですよ。その問題が解けないで悩んでいる人を見るとニコニコする(笑)。解かれると残念がり、もっと難しいのを作ろうとしていたのをよく覚えています」(竹内氏)
東海研修会時代の藤井聡太八冠の対戦表。終盤に強い研修会当時の藤井八冠だったが、「お兄さんたちにはその弱点を見抜かれていたから勝率6割とけっこう負けています。でも、そのおかげで経験値も相当増したのだと思います」(竹内氏)
今では年齢以上に冷静沈着に見える藤井八冠だが、当時は感情が抑えられないことがよくあったという。「小学校低学年のときはふだんから対局に負けると、将棋盤を掴んでワーッと泣きわめいたり、癇癪を起こすタイプでした。いつまでも声を出すので、他の対局者の邪魔になる。それで僕が教室の端に連れて行くのです」(竹内氏)しかし、精神面でもこの研修会で大きく成長する。「4年生になるころには、負けた理由が自分で理解できるようになり、それにともなって感情もコントロールできるようになりました。初めて藤井先生が癇癪ではなく、悔しさを噛み締めて静かに泣いているのを見たのはそのころの大会ですかね」(竹内氏)
そして研修会でも一目置かれる存在になっていく。「将棋の序盤中盤は大したことがなくても終盤にめちゃくちゃ強い棋士でしたから、10代のうちにプロにはなれるだろうという共通認識もありました。ただ、こんなに早く八冠という偉業に手が届く存在になるなんて、私も当時の生徒たちも誰も予想してなかったと思いますよ。それと研修会時代は根が明るくて、みんなに好かれていましたね」(竹内氏)八冠を成し遂げたが、現在は竜王タイトル防衛の七番勝負の最中にいる藤井八冠。挑戦者の伊藤匠七段は同学年だが、藤井八冠は2012年1月、小学3年生のときに出場した全国小学生将棋大会で伊藤七段に負けた際も大泣きしている。以来、伊藤七段は「藤井を泣かせた男」と呼ばれるようになった。
棋譜を勉強する高校時代の藤井聡太八冠(共同通信社より)
そんな藤井八冠の成長の助けにはAIの導入がもっとも大きかったという。それまでは過去の棋譜から打ち方を学ぶため、まず玉を守るという打ち方が染みつきやすかった。だがAIはそれを全否定し、「玉を守る暇があればすぐ攻めろ」という結論を導き出した。藤井八冠は若くて頭の柔らかいうちから、AIを取り入れたことで、加速度的に棋力を上げていったのだ。「私は20年間、東海研修会に務めましたが、いろいろな指導にトライし続けた結果、勝つことを求めすぎたり押しつけるような指導はやめて、対局中は真剣にやらせるけど他の時間は口を出さないという方針をきめました。この指導法が一番と気づいたタイミングで藤井先生が入会してきました。彼が活躍してくれるたびに、自分の指導に自信が持てることが何よりうれしいです」(竹内氏)最終回は将棋以外の場で見せる藤井八冠の一面に迫る。#3につづく取材・文/集英社オンライン編集部ニュース班