大艦巨砲主義の終わりの始まり「タラント空襲」はなぜ大成功したのか 真珠湾攻撃はこれを参考にした

第二次世界大戦中の1940(昭和15)年11月11日から12日にかけて、それまでの“大艦巨砲主義”の終わりを告げるきっかけにもなった攻撃が行われます。イタリア戦艦の半数を戦闘不能にした「タラント空襲」です。
第二次世界大戦中の1940(昭和15)年11月11日から12日にかけて、それまでの大艦巨砲主義の終わりを告げる一因にもなる攻撃が行われます。イギリス空母艦載機が停泊中のイタリア艦隊に行った「タラント空襲」です。
大艦巨砲主義の終わりの始まり「タラント空襲」はなぜ大成功した…の画像はこちら >>攻撃を行ったフェアリー「ソードフィッシュ」(画像:イギリス国防省)。
イタリアが参戦したのは同年6月10日のこと。それ以降、地中海でイギリス海軍との海戦が発生しますが、イタリア海軍は戦艦や重巡洋艦などの大型艦艇の損失を恐れたのか、あまりそれらを前線には出していませんでした。しかし、戦艦は近海にいるというだけ脅威になりました。そこで、イギリス海軍は大型艦の戦力を削ぎ、地中海の制海権を奪おうと、思い切って大型艦船が引きこもるタラント軍港への空母艦載機による攻撃を考えます。
この当時、空母保有国の中で日米はまだ未参戦で、イギリスも空母艦載機のみでの敵戦艦への攻撃は行っていませんでした。タラント湾はイタリア半島のかかと付近にありますが、防空網は備えられており、イギリスが攻撃しても頑強な反撃にあうことが予想されていました。そもそも、当時は停泊中であったとしても航空戦力のみで沈められた戦艦は1隻もなく、どこまで攻撃に効果があるのかは未知数でした。
攻撃は敵の反撃を最小限に防ぐため、夜間に行うことが決定します。タラントへの空襲は空母「イラストリアス」と「イーグル」所属の艦上攻撃機であるフェアリー「ソードフィッシュ」36機が担当することになります。
同機はこの約1年後に太平洋で戦うことになる日米の艦上攻撃機と比べ、旧態依然とした設計思想で作られている機体でした。コックピットは開放型、固定脚の複葉機で、日米の機体より100km/h以上も遅く、敵機に捕捉されればただではすみません。
当初は10月24日に攻撃を行う予定でしたが、直前に「イラストリアス」の火災や「イーグル」の戦闘での損傷が重なり延期に。結局「イーグル」は作戦に参加できないこととなり、同艦の「ソードフィッシュ」の一部を「イラストリアス」に載せ替え、合計21機で攻撃を行うことになります。
しかしこの延期は、ある意味では良い方向に転びました。タラントでは悪天候のため、飛行機による低空からの攻撃を防ぐために設置されていた阻塞気球の3分の2が撤去されていたのです。しかも、イタリア海軍の戦艦6隻全てが、たまたまタラント湾に揃っているという機会にも恵まれます。
「ソードフィッシュ」隊は第1波12機と第2波9機に分かれ発艦。第1波の攻撃隊がタラント湾に到着したときは、月明かりがあるとはいえ、まさか夜闇に紛れて攻撃機がくるはずないとイタリア軍は思っていました。そのため聴音機で敵機の音を拾っていたのにもかかわらず、誤報かせいぜい偵察機だろうと油断していました。
完全に不意を突いた攻撃によりわずか10分の間に戦艦「リットリオ」「カイオ・ドゥイリオ」「コンテ・ディ・カヴール」の3隻が魚雷を受け損傷。「リットリオ」「カイオ・ドゥイリオ」は大破扱いで約1年間戦線を離脱、「コンテ・ディ・カヴール」に至っては大規模な浸水が発生し着底。ほぼ撃沈状態になり、復帰することはありませんでした。
ほかにも、イタリア海軍は重巡洋艦1隻、駆逐艦2隻が損傷しています。戦艦に関しては半数になる3隻が戦闘不能となりイタリア海軍は作戦能力が麻痺してしまい、制海権はイギリス海軍に奪われることになります。対してイギリス海軍の損害は「ソードフィッシュ」2機のみと圧倒的勝利でした。
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大破着底した「コンテ・ディ・カヴール」(パブリックドメイン)。
この戦いで、艦隊決戦に頼らない飛行機のみでの艦艇への攻撃の有効性が証明されました。その1年後の1941(昭和16)年12月8日、タラント空襲を参考に日本海軍がアメリカ海軍に対して行った真珠湾攻撃で、その有効性は決定的になります。
まだ“航行中の戦艦ならば沈められることはない”という神話は残りましたが、それも直後の1941年(昭和16)年12月10日に、マレー半島東方沖で発生したいわゆる「マレー沖海戦」で、イギリス海軍の最新鋭戦艦だった「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」が沈没することで否定されます。タラントへの空襲はそうした大艦巨砲主義の終わりを象徴するような最初の作戦だったといえます。