「街の人情伝えます」現役91歳 かあちゃん記者、疾走る

創刊50年、主筆になって40年。月2回発行のタブロイド判のローカル紙を作り続けてきた。一年中、中野の街を疾走するかのように東奔西走、休刊したことのないのが自慢と胸を張るのは、『週刊とうきょう』主筆兼記者・涌井友子さんだ。
90歳を前に大腿骨骨折の大けがを負うが、取材への情熱でリハビリに励み、1カ月で退院。愛用の杖をつきながら、いまでも1万歩を超えて歩く日も多いというから驚きだ。その活動の原動力は、自分を支えてくれた地域への愛と感謝の念ーー。
涌井さんは、1931年(昭和6年)4月、静岡県藤枝市に生まれた。
「父は静岡県庁勤め、母は教員をしていました。5人きょうだいの三女で、おとなしい子でしたね。
学生時代は戦時中で、勉強より農村動員で、田植えやお茶摘みに駆り出されていました」
終戦時は、女学校の2年生。母親同様に教師を目指して代用教員まで体験したが、当時の学制の混乱もあり、教員免許を取得できずに20歳で静岡鉄道に勤務すると、受付係に。
「まだ戦後の混乱が続いており、静鉄の受付には、会社にありもしないことをふっかけて、偉い人に会おうとする不逞の輩も押しかけてきたんです。それを受付でうまくさばくのも私の役目。
なかには、得体の知れない自称・地方紙の記者たちもいました。まさか数年後、自分がローカル紙の記者になるなんて想像もしてなかったから、当時は、もう必死で追い返していましたよ(笑)」
幼いころから文学少女だった涌井さんは、社内の文化サークルに次々に参加した。

「その活動のなかで、東京の大きな短歌の会にも参加するようになったんです。その場所が、中野でした。
鉄道会社勤務だったから、静岡から新宿辺りまで職務パスでほとんどタダで行けたんです」
そこの会員だった新聞記者を通じて知り合ったのが、夫となる啓権さんだった。
「私より2つ年上で、郵便局勤めのあと、中野区のローカル新聞の記者をしていました。初めて会った数日後には、手紙が届くんです。その熱意にほだされたのと、田舎暮らしで早く嫁がなきゃという世間体もあったりして、結婚を決めました。ローカル紙の記者の経済状況を考えもしないで」
’58年、中野区の鷺宮に引っ越し、新婚生活が始まった。
■4人姉妹を育てながら、夫の後を継いで50歳でかあちゃん記者となる決意を
結婚から15年。3人の娘もでき、母親業と新聞制作の助手をしながら、あわただしい日々を送っていたとき、思いがけない出来事が起きる。
「主人が、勤めていた新聞社の社長との意見の相違があって、独立することになるんです」
こうして、夫婦2人で『週刊とうきょう』を創刊。’74年1月だった。この前年には、中野駅前のシンボルともいうべき中野サンプラザも開業していた。
「“週刊”でもないし、“東京”でもないわけですから、看板に偽りばかりですよね(笑)。
でもね、主人も最初は中野区以外の取材もするつもりだったし、当初は月3回発行したことも。それでも月2回になったのは、主人の体調のせいも。もともと糖尿もあったりで丈夫じゃなかったから、私から、『お父さん、無理しないで月2回でゆきましょう』と」

創刊に当たっては、夫とこんな約束をした。
しかし8年後、’82年4月、主筆だった夫の啓権さんは、夢半ばにして亡くなってしまう。
「糖尿病など持病もありましたが、最後は肝臓がんで。当時の日本では一般的でしたが、告知をしなかったので、本人は復帰するつもりで、ベッドの上でも亡くなる直前まで記事を書き続けていました」
新聞発行に関しては、誰もがもう存続は困難だろうと思っていた。涌井さん自身も、
「長い間、手伝いこそしていましたが、新聞作りは、いわばド素人。ですから、主人の記者仲間や印刷所などの関係者、それに購読者の方たちも、廃刊になるのだろうと考えているようでした。
私も、仕方ない、と諦めていたというのが正直な気持ちです」
ところが、四十九日の法要の席だった。夫の遺影を眺めていて、涌井さんは、ふと思う。
「夢だった新聞を創刊して、たった8年ですからね。最期までベッドでペンを握っていた姿を思い出して、さぞ無念だったろうと。やっぱり、私が後を継いでやらないと、主人も、この新聞もかわいそうと思ったんです」
周囲にその気持ちを告げると、意外なことに、ほとんどの人が、
「記事は下手でもいいから、かあちゃん新聞でいいから、続けてよ」
ああ、夫は、この新聞は、中野の人たちに本当に愛されていたんだ、と改めて思い知らされるのだった。そして、その決意は、夫の死後に発行された新聞の一隅に「社告」として表明された。
〈『週刊とうきょう』の営業は引き続き涌井友子が主人の遺志を継ぎ継続させて頂きたく存じますので、今後ともよろしくご指導ご鞭撻頂きたく伏してお願い申し上げます 涌井友子〉

こうして、夫の残したニコンFを首からぶら下げて、4人姉妹を育てながら、かあちゃん記者となった。ちょうど50歳だった。
■地域のみんなで助け合って生活していくことの大切さを取材を通じて教わった
夫の急逝を受け、ローカル紙の記者となった涌井さんには、この丸山さんのような地域の支援者、ファンが徐々に増えていった。
「人に会うのは、このとおり、私は話し好き、人好きだから、ぜんぜん苦にならなかったんです。
そのうち、方々から『こんなイベントをやるから取材に来てよ』と声がかかるようになったり」
いちばん苦労したのは、編集作業だったという。
「特に、新聞紙面の割り付け、レイアウトというのは、多くの決まり事があって独特なんです。これだけは、主人の記者仲間の方たちに教わって習得しました」
とはいえ、記者と4人姉妹の母親という二足のわらじ生活は「いつもギリギリでした」とふり返る。
「末っ子は、まだ小学1年生になったばかり。
そもそも主人の後を継ぐときにいちばん悩んだのが、家計のこと。新たに就職しても大変だろうし、新聞を続けてもやっぱり大変。でも、同じ貧乏をするなら、父親の仕事を継いだほうが、子供たちも頑張っている母親の背中を見てくれるんじゃないだろうかと思ったんです。何が必死かって、食べさせることでしたね」
夕飯の時間だけは、なるべく取材を入れずに、台所に立った。
「でも、ろくなものを作ってなかったと思います。子供たちには申し訳ない。塾に通わせる余裕なんて、ないですよ。だから、私の母親としての口癖は、『教室で先生が話すことを、しっかり覚えてくるんだよ』でした」

どうしても夕方以降に取材に行かねばならず、前出の証言のように、末っ子が幼いときには、おんぶして取材を続けたことも。その姿を見て、相手は言った。
「かあちゃん記者が、子連れで来たか」
その言葉の温かさに救われたと、涌井さんは言う。
「今のSNS時代なら、なんと言われたか。日本中の誰もが豊かさを目指して頑張り、助け合っていこうという思いやりが、かろうじて残っていた時代でしたね。
娘もまた、私が取材するかたわらでお絵描きしたり、メモ用紙をビリビリ破ったりしながら、おとなしく待っていました。働く母親の苦労を、子供ながらわかっていたのでしょうか」
夕方の取材に出なければならないときは、近所の住人たちが「娘さん、うちに置いておけば」と気軽に声をかけてくれた。
「私は4人の娘を一人で育てたんじゃない。地域の人たちに育ててもらったという感謝の思いがあって、だから恩返ししたい、地域に貢献したいとの思いで、中野で取材を続けました」
その後は4姉妹も成長し、’10年には1千号記念号も発刊するなど順調に進んでいたが、’20年1月、涌井さんを突然の事故が襲う。
「野方商店街の新年会の取材をした帰り道で、会場を出た途端にしりもちをついたと思ったら、動けなくなって。みなさんに助けられて病院に運ばれたら、大腿骨の付け根の骨折でした」
入院中、いつも考えていたのは、一日も早い現場復帰だった。
「毎年、春には区内の多くの団体や協会の総会があります。恒例のこの催しだけは、絶対に私が取材するんだと自らに言い聞かせ、リハビリに励みました」

涌井さん自身は、骨折後、自転車に乗れなくなったのが、唯一の残念なことだと話す。
「40年間、区内の遠い場所でも自転車でしたが、杖をつくようになってバスに。でも、杖に頼っても自分の足で歩ける間は、生涯現役のつもりです」
91歳の今でも、取材に夢中になり区内を歩いていて、万歩計が1万歩を超える日も多いという。
「ですが、最近は区内を取材しているだけでも孤独死、虐待など、深刻な問題の多さを痛感します。
これから、私もさらに年齢を重ねて、介護の問題も出てくるでしょう。そんなとき私は、地域のみんなで助け合って生活していくことの大切さを、身に沁みて知っています。それを取材を通じて教えてくれたのが、実は下町的な人情に厚い中野という街でした」
世知辛い時代だからこそ、半世紀にわたり、中野という街の温もりを伝え続けてきたわずか2ページの新聞が、そこに暮らす人たちの絆やコミュニティを、より強くする存在として期待されるのだ。
【後編】91歳の現役記者 赤ちゃんをおんぶして取材にいそしみ、今年で40年へ続く